本

『中井久夫 精神科医のことばと作法』

ホンとの本

『中井久夫 精神科医のことばと作法』
KAWADE夢ムック
河出書房新社
\1300+
2017.5.

 私としては、安克昌さんの『心の傷を癒すということ』から、PTSDの問題へと入ったのだったが、この安克昌さんを育てた人、それがこの中井久夫氏であった。いや、正直に言うと、阪神淡路大震災についての本を見渡しているとき、この人の名前が目に入ったのだった。こうして、神戸大学医学部で安克昌さんの師であるということに気づかされたのであった。『心の傷……』の序文を中井氏が書いている。また、安克昌さんの葬儀委員長を務めている。
 さて、この中井久夫氏は、震災直後のレポートを記し、世に出している。私はその本をも早速注文したのだが、克明に、それでいて情景がよく浮かぶように流暢に、記録されている。文章が巧いとされるだけのことはある。エッセイストとしても一流であるのだ。
 するとまた、図書館で、まるごと中井久夫氏という、やや雑誌にも似た、ムック形式の本を見つけた。これはなかなかおいしいではないか。すぐに借りる手続きをした。
 といっても、ご本人がしゃしゃり出てくるような本ではない。それはもう、ご本人の著作に語らせればいい。これは中井先生をよく知る周囲の人、仕事上で共にした人などの声を集めたものである。あるいは、中井先生自身の加わった対談の原稿も含まれている。まさにファンブックとでも言おうか、これはひとつのパレードである。
 一部、未公開の、創作「いろは歌留多」などもおまけとしてあるが、全体はやはり様々な人の、中井久夫氏に対する思いが溢れている、そんな原稿の集まりとなっている。なんと多くの人に愛されていることだろう。だがそれは、多くの人を愛したからこそのものであったのではないかと推測する。
 サブタイトルは「精神科医のことばと作法」。なかなか普通思い浮かばないような表現だが、これが中井先生を表すための、最適の言葉なのだろう。エッセイストとしても定評があり、もちろん人の心を扱う仕事で貢献してきたのだから、なんとも読んでみると心が温まったり、はっとさせられたりするのであるが、文章に無駄がなく、そして深い。
 というのも、先に挙げた阪神淡路大震災についての本で中井氏の文章に直に触れた私だったから、その文章に唸ってしまっていたのだ。それは記録であるが、ただの記録ではない。その人の心を浮き上がらせる、しかしさりげない表現。人間観察のしっかりした眼差し。陰惨な現場を見ないようにするその理由の切なさも、確かにその通りだと肯かざるをえない説得力をもっていた。
 本書では、木村敏氏や安永浩氏など、精神科医やその道の専門家とのがっちりとした対談もあれば、浅田彰氏とのぞくぞくするような思想面の対話も見られる。
 統合失調症をスタートとし、阪神淡路大震災での体験からPTSDについて研究し、また紹介を重ねている。これが専門であるが、ギリシア語やラテン語にも造詣が深いというのには驚く。こうした背景があるからこそ、なにげない文章にも背後に強力な基盤があろうというものだ。
 だが、本書ではご本人の言い分はさておき、周囲の眼差しというものがどうであるか、それを堪能するのが筋であろう。もちろん精神科医という肩書きの人が多いが、幾人かの哲学の専門家もいる。私も存じ上げなかったことで申し訳ないが、もっと広く深く知られて然るべき方なのだろうと尊敬申し上げる次第である。




Takapan
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