『中原中也詩集』
河上徹太郎編
角川文庫
\417+
1968.12.
中原中也は、1907年、山口県に生まれた。1937年に、30歳の若さで没する。27歳にて生まれた長男を、2年後に病気で亡くす。本書にも収められた「在りし日の歌」にその思いがこめられている。直ちに生まれた次男も、中原中也の死後間もなく亡くなったという。
女性についても、傍から見るとドラマチックな関係が見出される。年上の長谷川泰子と同棲するも、泰子は小林秀雄の許に去り、さら産んだ子の父親は、演出家の山川幸世であった。しかも、そのこの名付け親が中原中也であったという。
先の「在りし日の歌」は、死後出版されているが、その原稿は小林秀雄に託されている。この辺り、十分劇的な生涯であることを思わせる。
本書は、その切ない子への歌と、主たる詩集である「山羊の歌」、それから他の「未刊詩篇」とを収めている。
私は中学生のとき、「サーカス」の不思議なあの「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」に魅力を覚え、メロディをつけたことがある。それも印象的だが、「茶色い戦争」の言葉には、どきりとしたものだ。
もちろん有名な「汚れつちまった悲しみに……」の定型詩は、リズムよく心に刻まれる。非常に抽象的な「悲しみ」だからこそ、それを受けた者のもつ痛みに、染みてくるものがあるというものだろう。
特に晩年、聖書に惹かれたことが知られており、詩の中にもそれが漂ってくる。精神的に問題を抱えていた、と説明するのは簡単だが、たとえ洗礼を受けたのではなくても、その魂にキリストの十字架がくっきりと見えていた点は否めない。いつも「死」と向き合っていた詩人は、「祈り」の思いを以て、言葉を見出そうとしていたのではないかと想像する。
それは「我が祈り」という詩が、幾度も「神よ」と呼びかける言葉を用いていること、特にその中程で「私は此所に立ってをります……」と祈っていることに、何かしらここにまで響いてくる孤独と求めが感じられる、とでも言えばよいだろうか。それは、まだ22歳のときの言葉であった。泰子が小林のところへ行き、さらに小林が泰子から去って行った、その翌年に、この詩を「小林秀雄に」という副題を添えて歌っている。
まるで短い一生をすべて知っていたかのように、中也は、慌ただしく詩を書き、発表している。いま書かなければ、永久にその言葉は表に出ないということが、分かっていたようにも見える。
自分の中の暗さと向き合い、これではだめだと戦いながら、言葉を紡いでゆく。ある意味で純粋に、自己を見つめ続けていたのだろう。私も、拙いが詩を書いていた。だから、その気持ちだけは何か通ずるものを覚えるのだ。
小学校時分、成績が優秀であった中也は、中学校に上がり、本格的に文学にのめりこんでゆくようになってから、成績は芳しくなくなってゆく。落第後、京都に移り、16歳にて泰子を知り、翌年同棲を始めるという成り行きであった。1年半の生活であった。
後に、26歳にて上野孝子と結婚したため、その翌年長男が産まれたが、その命は長くは続かなかった。活発な詩作の背後にある人生の悲哀や運命のようなものを体験しつつ、中也は自身恐らく満足しないままに、その生涯を閉じることとなる。だが、その輝きは決して消えはしない。たとえ世間の冷たさに望みをもてなくなって、「私はもう歌なぞ歌はない」と、「詩人は辛い」にて繰り返そうと、ちゃんといま、ここにまでその心は響いているのである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド