『慰めの共同体・教会 説教・牧会・教会形成』
クリスティアン・メラー
加藤常昭訳
教文館
\3500+
2000.2.
こうした翻訳をすることにより、その著者の思想や用語が、訳者の発言にも影響することがよくある。加藤常昭先生も、「慰め」の「教会」ということについて、深く考え、また著書にも導かれている。あるいは、そもそも訳者の中にそのような考えが大きく膨らんでいたため、海外のこの本と出会い、翻訳しようと出会った、という方向性もあり得ることでしょう。本書がそのどちらか、ということについては、勝手な意見はぶつけないことにします。
メラーは訳者よりも年齢が若い。そして、その指導教授が、訳者と重なる。こういうことで、個人的なつながりもあり、指導教授ボーレンと共に、影響を与え合う機会が十分にあったと思われる。ただ異なるのは、訳者の教会というものが日本におけるそれであるため、同じように教会を危惧し祈り支えようとしても、それぞれの教会の置かれた情況が違う、という点である。ドイツの教会制度やその現状、また語弊があるかもしれないが、先進性とでも言うものが、国民的な宗教事情と相俟って、日本の教会とはまるで違うことは否めない。
確かに、日本の教会は、ドイツの教会と置かれた場が大いに異なる。そこに集う信徒の信仰姿勢や宗教的背景についても、横並びに論ずることはできない。しかし、訳者と同世代の眼差しは、決して社会環境の相違を大きな隔てとはしない道を、そこに見出すことが可能であるように感じる。たとえば、冒頭の「訳者のことば」において、すでにドイツでは本書の著された1990年に於いて、「教会の礼拝の衰退、説教の無力化」が目立ってきている、というからである(p8)。これへの対症療法も考えられるが、メラー本人はこの情況を「現代のペスト」とすら呼んでいるという。
本書は「牧会的説教」の必要性を400頁にわたり論じてゆく。「説教」というものを重んじる訳者と、この点で関心が一致する。そのためか、訳文がこなれているのはもちろんのことだが、非常に熱の入った論調が、日本語の読者にもストレートに伝わってくるような気がしてならなかった。
ただ、この「牧会」という言葉には、日本語とドイツ語との間でひとつの注釈が必要である。ドイツ語のそれは、直訳した語の構造として、「魂の配慮」というような意味になっていることである。「牧会」には、羊飼いのイメージが強く重なる。外面的なところにどうしても目が留まる。だが、ドイツ的には、魂を目がけているはたらきが考えられている。「命のことで思い悩むこと」(p178)のことだ、とも言われている。これに基づく説教が、書かれた冷たい文章であってよいはずがない。
そのため、本書でもまず説教というものが形成されるに至る過程からの吟味がなされるが、それは教会という場で語られるものとしてこそ、「キリストを指し示す」(p210)説教が遂行されるのであろう。そこに、教会共同体という中での説教のはたらきが成立する。
本書は時折「実例」と称して、力のこもった説教が紹介される。これは、理論的叙述の連続で疲れた精神を、霊的に活性化させる。飛ばすことなく、順に読んでいくべきである。
この中で「慰め」が、本書の大きなテーマであるように、邦訳が付けられている。実はこれは、原書の題名にはない。むしろ「牧会的説教」である。しかし訳者の判断で、「慰め」という概念をクローズアップして、邦訳が出来上がった。「慰め」は、ギリシア語の「パラクレーシス」である。そして、牧会的説教こそ、「パラクレーシスを語ることである」(p164)と述べられてもいる。それは「こちらへ呼び寄せる」(p167)という意味の語であるから、説教者は聖書を、「助けを求める叫びの光のなかで読む」(p169)必要がある、とも言っている。
実際の教会において、「疲れ果てた者」が少なからずいる点をも、本書は強調している。これは日本の教会にも当てはまる。平日の勤労に喘ぎ、安らぎを求めて礼拝にきた教会で、一日奉仕に勤しむよう強いられる教会員や役員の姿が、果たして教会という場における平和であるのかどうか。また、弱さを抱く人々が、教会の中心に来ることができず、活躍する人々を遠くから眺めて小さくなっており、そそくさと帰宅する中で、説教から喜びを受けることから程遠い、ということがないか、胸に手を当てて考えるべきではないだろうか。
サブタイトルに付けた「説教・牧会・教会形成」は、なかなか的確に要約していると言えるが、本書は最後の方で、「教会形成」についての検討を行う。時にカトリック教会を見倣うかのようにして、「拓かれた、招きの教会になる」(p359)ことを目指すように針路を見出す。そうした教会形成は、信徒もまた、本書を弁えて、共に考えてゆくべきであろう。そこで、小さな注釈のようにして、ボンヘッファーの『共に生きる生活』が示唆されているのも興味深い。現に、心ある教会は、平日の読書会でそれを共に読んでいるという。果たして日本の教会に、時も場所もずいぶん異なるこうした書物が、どのように適用できるのかどうか、課題もあるだろうが、教会が真摯に教会の健全さを願う場合、たとえ回りくどいと口を挟む者がいようとも、教会というものについて真摯に考察した書を、共に学ぶことが、いま必要であるのだ、と改めて教えられる気がした。

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