本

『永井隆 原爆の荒野から世界に「平和を」』

ホンとの本

『永井隆 原爆の荒野から世界に「平和を」』
片山はるひ
日本キリスト教団出版局
\1200+
2015.3.

 偶然見つけた本を手に取ったが、手にとって良かった。少年少女向けに書かれたシリーズの本だ。恐らく小学高学年でも大丈夫だろう。ほどよく振り仮名も振ってあるのと、語り口調が自然で、しかも子どもたちに理解しやすい言葉や論理で書かれていると思う。  キリスト教の教育にも関わりの深い著者であるが、自ら永井隆に出会って感動したという背景の中で、情熱をこめて綴ってあることは間違いない。
 永井隆の人生は、どうしても原爆の後に偏って紹介される。しかしここは伝記の形式により、幼少期から紹介されていく。キリスト教・カトリックの信徒であることはもちろん有名だが、若い頃には必ずしもそういう信仰心とは関係がなかった、むしろ反発していた、というところから入る。科学の実証主義的な考えに支配されていたというその青年期であったが、むしろそのことが、後に放射線について適切な判断や理解をしていくということへと結びつくのであるから、神の導きはまことに深い。この永井隆が聴力に不自由を抱える事態となっていたことは、私は知らなかったので、さらに深く肯いた。そのことで、聴診器が使えないがために、放射線科に進んだというのである。
 緑という女性と出会って結婚する。この祈りの人がいたからこそ、彼は彼のあの人生を歩むことができたということがよく伝わってくる。この辺りは、女性たる著者の腕の見せどころであったかもしれない。少なくとも読者はそれをうれしく感じる。この緑の生き方は、隆ほどには知られていないが、本書に触れた若い世代は、決して忘れないだろうと思う。
 戦争体験が隆を平和への思いに満たす。それは実体験したことがなければ分からないようなものでもあるだろう。著者は、時折著者の人生観や意見を交えながらこの本を進めていくのだが、この平和と戦争についての考えが、どこまで隆のものなのか、著者のものなのか、判然と区別が付かないところもないわけではないが、恐らくは本人の意志を強調しているわけで、決して隆を利用しているということはないだろう。それにしても、自分は安全なところで何の苦難も感じずして、人々を戦地に送り込むという為政者の姿をこれほど少年少女にぶつけてくるというのは、なかなかの勇気であるかもしれない。その意味でも、こんな本が若い人たちに影響を及ぼすことができるように、そのように読まれてほしい、とも思う。
 しかし放射線科は、当時自ら被爆するという環境の仕事であったことが記される。命を削って放射線の研究や治療をしていたという方々のことを思うと、いたたまれなくなってくる。その挙げ句、彼は原子爆弾を長崎で受けることになる。疎開していた子どもたちは命が助かったが、残っていた妻の緑は非業の死を遂げる。いつも祈っていたロザリオが遺っていただけで、それが緑であったことを知らせる遺品となったのだった。
 病院で被爆した隆は、医師として救護に励む。自らも負傷しつつも、自分にできることはこれしかないのだと不眠不休で挑む。そしてその中で死んでいく人々に触れながら、平和への思いを強くしていく。後に著述業に勤しむときに、これが一気に吐き出されていくことになる。しかしそれは、もう生きていることが不思議なくらいの状態で、生き延びていた、あるいは神に生かされていたのだった。もはや放射線科云々とは比較にならないくらい、原子爆弾による被爆は致命的だったのだ。
 永井隆は思いの丈を綴り、病床で本を書き続けた。その内容については、いまは批判もある。当時彼には見えていなかったものもあるだろうし、見えすぎていたものもあるだろう。いまの私たちの倫理観とは相容れないものを感じる人もたくさんいる。しかしながら、それはまさに、極限に置かれた者として批判していることにはならず、安全なところから苦しむ人を見下ろしているかのような態度にも思えてくる。私たちはもっと、永井隆から学ぶべきところがあるだろう。彼の本は当時売れに売れた。たくさんの人に読まれた。それが恵まれているなどと私たちは嘯くことも可能ではあるだろうが、そうしたことも神の摂理の中で、「平和を」という彼の思いが人々の意識に上り、考え行動するきっかけになるために必要な出来事であったとしてはいけないだろうか。
 この「平和を」は、その後に何を続けるかが記されていない。そこに続く言葉と行動は、私たち一人ひとりに投げかけられ、問われていることなのだ。私たち自身が埋めなければならないことなのだ。そして、受け取った若い人々が、ぜひ築いてほしいと願うのである。
 この本は、永井隆の人生をあまりに美しく書きすぎているかもしれない。しかし、青少年には、まずはこのような形でぶつけるのが、先人の人生というものではないかと思う。やたら批判を先行させると、恰も自分たちが正しいかのように錯覚してしまう。まずは学ぶのだ。そこから聞くのだ。
 最初のほうで、彼が描いたというブタの絵が提示され、クイズが出される。私はブタを愛しているので、これは個人的に嬉しかった。もちろんクイズの答えはすぐに分かった。その解答は、読者が忘れかけていたかもしれない最後に、見事に示される。それがまた、本書の大きな訴えに関わっている。
 また、最初に著者は、東日本大震災のときに自分が海外でその報を受けたと書かれていたのだが、そのことと永井隆についてのこの本との深い関係も、やがて明らかになる。それはいまここでは明らかにしないでおこう。政治的な意見を含む主張であることにはなるだろうが、これもまた私たち一人ひとりが受け止めて次の世界の歴史のために、選択しなければならない大事な事実であるのだ。
 発売当時、私はこの本の宣伝を見なかったはずはないのだが、どうして見落としていたのか、いまになって知ることになったのか、不思議である。だが、この時に知ったということも、おそらく何かの摂理の結果なのだろう。いや、結果ではなく、これを契機として、摂理が始まるものであるべきなのだろう。




Takapan
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