本

『未曾有と想定外』

ホンとの本

『未曾有と想定外』
畑村洋太郎
講談社現代新書2117
\756
2011.7.

 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の委員長に就任した著者が、委員としての活動を始める前に、自分の考えをまとめておいた本である。勇気がいることだろう。これから公的な立場で調査し、提言していくことになるわけだから、場合によっては自分の主張が通らない可能性もある。そのときにも、自分の考えはこうである、と予め公開していることになるのだから、その矛盾が指摘されたり、変化の理由を追及されたりする可能性もある。黙っておけば問題がなかったにしても。
 それはそうと、畑村氏の本には以前からなじみがあり、私はその発想と地道な調査による貢献度の高さには敬意を表するものだった。責任の追及と事故原因の調査とが一体化するとき、事態そのものは改善することがない。責任逃れのために真実は隠され、また悪者探し、犯人探しが目的となって、再びそのようなことが起こらないためにはどうすればよいかという観点からの検討が蔑ろにされる。失敗は、そのようにして繰り返されるのだ。
 3・11の大震災は、地震の被害もさることながら、大津波により広域に大変な被害を出すことになった。あまつさえ、福島の原子力発電所の事故は、復興の文字を浮かび上がらせることのないダメージを与え、解決の糸口さえ掴めていないのが実情である。
 ところが著者は、見方を変えれば、かつての教訓は活きている、と言う。たしかに犠牲者は甚だ多い。かつての地震と津波における犠牲者をも上回る数が報告される。だが、人口比で考えると、生存率は上がっているというのだ。人間を数や率で計算するというのに抵抗をもつ人もいるだろうが、生死の境目は殆ど運としか言えないような状況の中で、率の高さは、そのまま防災の向上をそのまま物語るのは確かである。
 運などと言ったが、すべてが運ではない。助かった人にはそれなりの理由があり、犠牲者には一定の背景があるかもしれない。著者は、一つには、この大震災が、百年を単位としていることを指摘する。つまり、人の一生からすれば、誰もが初めて出会う災難であるということだ。そのため、昔からの言い伝えや教訓も、重視しない傾向になる。つまりは、忘れてしまう、ということだ。それだから、今回の震災でも、かつての言い伝えを重んじて生活に浸透させていた区域では、死者を出していない区域すらあるというのだ。
 だから、マスコミを通じて広まった「未曾有」という言葉に、単純に乗ってはならない、と著者は言う。それは言い逃れにはなっても、いわば一人の人生にとって未曾有なのは当たり前なのだ。しかし人間の知恵を鑑みると、先人の知恵を尊重するときに、未曾有などと言ってはならないことが誰にも分かる。人類にとり未曾有なのではないのだ。さらに、「想定外」という原発関係の企業の発言は、言い逃れのほか何ものでもなく、想定していなければならない点を外してしまったことを正当化のようにしてはならないわけである。しかしこれは、東電のみを非難してもいけない、と著者は考える。国がそれを推進したのであり、現民主党政権がもたもたしているのは確かだが、事故を想定しないミスあるいは原因とさえ呼んでよい事態は、前自民党政権がやったに他ならないと断じている。この点、今の自民党が十分な野党的機能を果たせない事情もあると言えるだろう。
 そして防災という点から考えれば、防波堤という考え方の中に潜む重大な欠陥を著者は幾度も説明する。自然の力は、防げないというのだ。人間がたとえ最大限に想定したとしても、自然の力はそれを上回る。科学や建築の力を過大視したが故にまた、今回被害が拡大した部分が否めないのだという。つまり、立派な防波堤があるから大丈夫、と逃げ遅れるなどが起こったというのだ。また、食い止める防波堤で守った街は、それが破られた時に逃れようのない災害に苛まれた事実を指摘する。
 そうではない。自然に真っ向から立ち向かったも勝てるわけがないのだから、自然の力をそらすこと、「いなす」ことが肝要なのだという。被害をゼロにすることはできないが、軽く済ますことは可能だというのだ。防波堤は、波を分散させるように昔は築いていたこともあったのだ。すると各地は浸水するけれども、それぞれは弱い波の影響を受けるに過ぎない。街は全体として守られるというのだ。
 このような発想から防災を考え、想定をしていくときに、たとえ被害を消滅させることはできないにしても、できるだけ少なく抑えることが可能ではないだろうか。原発においては、これほどの放射能放出を抑えることができるように想定した備えがなされているべきなのだった。単純に原子力発電をゼロにすればよいということも、現代的には不可能であるとの前提である。原子力をゼロにすれば、石油の枯渇を早めることにもなるだろう。あるいは、経済産業の衰退と私たちの生活環境を過去の省エネルギー状態に戻すという、他の事柄に比べて見通しのとれない方策で臨まなければならないだろう。
 八ツ場ダムの建設は、防災の観点があったことを思うと、単純に金銭問題で取りやめるのは拙いだろう、とも著者は言う。すべては防災の視点である。だが、問題は何を重視するかである。たとえばこの本でも、東京が災害に襲われた場合の悲惨なシナリオも想定している。それは、よくいう地震のことに限っているわけではない。水害が発生すれば、東京で数百万人の単位で犠牲が出て政治経済が止まる点を想定しているのだ。
 そんなありえないような想定をして何が楽しい、と思う人がいるかもしれない。しかし最悪のシナリオを想定して、そうならないような道を選ぶというのは、私たちが日常でとる基本的な姿勢であるとは言えまいか。国防というのは何も敵国を想定して軍備を拡大することとは限らない。愛国とは、特定の思想に人の心を塗り固めようというような、どこぞの国でやっているような方法によって達成されるのではない。この国が滅びないためには、リスクを見つめ最悪のシナリオが起こらないように何重もの想定をし対処しておくことが、そういうことであってはならないのだろうか。
 畑村氏の言うとおりの事柄が内容であるべきかどうかは分からない。しかし、より多くの人が知恵を集め、今回の地域の人々も、過去の歴史の災害を知る人々も、私たちと子どもたちの未来を守るために何を優先するべきなのか、考え、行動を起こすというふうにはならないものだろうか。
 エネルギー問題も、自然エネルギーの開発が待たれているが、実現には程遠い。将来的には、石油はもちろんのこと、原子力も資源としては有限である。私たちは、狭い愛国心に制限されず、子孫の世界を大切に扱おうとすることはできないだろうか。自分や自分の周囲の仲間の利害だけで思いこみの愛国や金銭増大の夢を見るばかりでなく、知恵を尽くしての想定をすることに傾いてはいかないものだろうか。
 一つ先の信号の変わり目さえも想定せずに歩き、あるいは車を走らせる人々があまりに多い世間を見ると、こんな簡単な理屈も、理解する能力のある人が存外に少ないことを、嘆かなければならないかもしれないけれども。




Takapan
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