本

『私のアンリー・デュナン伝』

ホンとの本

『私のアンリー・デュナン伝』
橋本祐子
学習研究社
\1100
1978.4.

 国際赤十字から栄誉あるアンリー・デュナン・メダルを、日本人として初めて受賞した方による、アンリー・デュナン伝である。それだけ思い入れもあるし、そもそもがアンリー・デュナンに惚れ込んでその仕事をしていたに違いないので、それはそれは努力してよく調べてあると驚く。
 それはタイトルに「私の」と添えていることからも窺える。
 ではそれは、私家版に過ぎないのだろうか。そんなことはないと私は感じる。堂々とした、アンリー・デュナンに寄り添った叙述である。確かに、同情的でもあるし、どこかヒーローのように描いていると言えるのだろうが、伝記であるとなるとそれは当然のことである。その人の意義を適切に後世に伝えるためには、この方針を否むことはできない。
 私は十代の頃、赤十字活動の末端にいて少々活動していたことがあった。デュナンについては普通の方々よりは知っていたかとは思うが、本書で告げられるほどの細かなことには目が向いていなかった。不遇な人生を送ったことは知っていた。赤十字の創始者としていまでこそ名が知られているが、デュナンの存命中は殆ど顧みられることがなかった。なんとか晩年に、記者によりその隠遁生活を見出され、社会的な評価を回復したことは、ほんとうによかった。絶望感の中で亡くなったのではないからだ。
 見出された方々の努力もあり、1901年に「第1回ノーベル平和賞」を受賞したことで、歴史に名を残したが、そんなことよりもたぶん、赤十字が成立したことが何よりもよかったと思ったのではないだろうか。その発足は、『ソルフェリーノの思い出』に基づき、傷ついた兵士を救う道を考えたことから始まる。
 しかし、一般に考えられているような本とは必ずしも同じではないことを著者は指摘する。デュナンの見たのはソルフェリーノそのものではなく、その周辺の場所であったというのだ。確かにこの戦争はソルフェリーノの戦いと呼ばれるが、デュナンが訪ねたのは、その他の地域が多く、そこでの体験を綴ったものなのだという。
 それにしても、戦争は常識だった。戦争で死ぬのは当たり前であった。いや、誰でもそれは残酷なものだとは思うだろうが、国の威信のために臣民が死んで行くのはある意味で当然だった。そのためにお偉方は、口先で名誉だお国だと鼓舞して弱い立場の者をその気にさせ、戦地へ連れて行く。守るのは自分たちの利得や利権であるだけの中で、人の命を利用する。戦争は、多かれ少なかれそういう背景を有する。これに対する気づきも当然あり、戦争のない理想の世界を考える人がいないわけではなかったはずだ。しかし、デュナンの平和論は、生温いように叩かれた。平和を講ずるならば、戦争をなくすことに努めたらどうだ。戦地で傷ついた人を助けるために命懸けで奔走するようなことや、そのために救護班を攻撃しない約束を交わすなど、殆ど意味のないことではないか、というのである。
 ある意味で純粋なデュナンの願いは、行動へつながっていった点が大きい。同じ思いを懐きながら行動できなかった人々を引きつけていくのだ。そうして、最初の意志を貫く歩みが実現する。
 本書によると、その運動のひとつの鍵は「中立」概念にあった。その点で仲間にある意味で裏切られ、デュナンはせっかく設立した赤十字を去ることになる。著者は、その成立を描いた絵画の群像の中に、デュナンが描かれていないことにショックを受け、その背景を探る。本書はこのように、現地を訪ねたルポを交えながら、デュナンに迫るところが魅力である。
 デュナンは、私のいたYMCAにも大きく関わっている。その平和論は生温いのではなく、現実の人を助ける力となる。それがあるからこそ、理想の平和への道が始まる。理想を崩す行為が方向を変えることがあるとすれば、こうした現実的な働きの存在によるのではないだろうか。それが空理空論でなく、実際に作動しているとき、それを破壊する自らの行為に、かすかにでも呵責が入り込んだら、と願うのだ。
 デュナンの直感とその生涯をかけた努力が無意味でなかったことは、その後の赤十字活動から明らかである。赤新月社も含め、本来キリスト教に基づいた働きであったものが、イスラム社会ともつながっている。世界がつながる理想に、確かに近づいていると信じたい。
 自分の理想を人々がシェアできるものに広げたデュナンの働きをレポートした本書は、「私の」で始まった題名であるが、これもまたすべての人にシェアされるものとしてその訴えが浸透していくものであってほしいと思う。




Takapan
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