本

『わが神、わが神』

ホンとの本

『わが神、わが神』
加藤常昭編
日本キリスト教団出版局
\2500+
2018.2.

 受難と復活の説教、それが副題。解説的な表書きとして、日本の説教者たちの言葉、とも記されている。
 説教学に使命感を懐き、ここまでドイツの説教を軸に説教について様々な角度から論じ、また実践してきた著者が、日本人の説教者を正面から取り上げた。それは、自分が学んだ先人たちへのリスペクトからであろうかと思われるが、直接自身が学んだ人もいる。そして、ドイツという地盤ではなく、この日本において説教がどのように扱われてきたかという事実を提示しようとしているかのようでもある。私はそのように受け取った。つまり、ヨーロッパに適用されたものでなく、文化的には異教の地である日本の中で、事実キリストの説教はどのように扱われ、培われてきたかの実際を伝えるというのである。
 15人を選び出すだけでも大変だっただろうと思われるが、さらに一人ひとつの説教を掲載するということのために、どうやって選ぶのかを悩む編者の苦労が偲ばれる。そこで、というわけではないかもしれないが、十字架と復活の説教に絞ることにした。いや、実のところ、最初から、十字架と復活のメッセージを日本の教会と説教者にぶつけたかったようだ。命ある説教をいまの私たちに伝える必要があること、しかもほかならぬこの日本で日本語で語られた説教の、いうなればひとつのあるべき姿を示す必要がいまどうしてもあると思わざるをえなかったのであろう。
 サブタイトルはまさに「受難と復活の説教」であるが、事実上、復活の説教が多くなっているという。確かにイースターに語るものが際立ってくるとなると、当然復活がメインとなる。そのとき、説教者自身がキリストに出会い、キリストに生かされて神の言葉を語ったという背景がある。やはり復活に傾いて然るべきなのだ。この、説教者が語る言葉が神の言葉となことと、それ故に語る説教者自身にそれがまず適用されるのだという構造を、編者は近年あちこちで強調している。それに合う形で本書も組まれたものといえよう。
 そして、ただの説教集でないところがまた良い。つまり、それぞれの説教者について、解説を加えているのである。まずは、その人の生い立ちを、どちらかというと淡々と伝える。小さな伝記あるいは経歴の紹介を流していく。それが終わると、その説教についての評価がなされる。当時どのような受け容れられ方であったか、また当人の思惑はどういうものであったのか、などが簡潔ながら十分理解できるように手際よくなされる。そして、本書に選んだ説教についてのコメントがなされる、という形が多い。
 タイトルの「わが神、わが神」についてだが、これは、植村正久師の説教題から取ったと思われる故、とくにこの牧師の説教を読者に印象づけたいという意図も窺える。植村正久の解説からすると、明治維新を迎えてから横浜に転居して英語を学ぶことを契機として宣教師に触れ、やがて横浜バンドに加わり伝道者となるが、吃音に悩んだものの、日本人の手による伝道や教会形成に力を発揮することが紹介されている。関東大震災で教会を失うが、再建に奔走した後、調理中に心臓発作のために急逝したことが記されている。「読む説教」のために手を加えた原稿を著作として多く遺している。十分な黙想を基にキリストを紹介すべく説教に邁進し、ここに紹介した説教は「日本の説教者が語り得た十字架の説教の頂点」であるとしている。
 戦時中、日本政府の権力が、教会の信条から、復活の項目を消すよう求めたという事実が、あとがきに書かれている。戦争と権力は、このようなことまでもやっていたのである。しかもそういう時代が、再び来ないとも限らないとするなら、益々キリスト教の命である復活については、強く語らなければならない。そのためにはまた、語る者が復活のキリストに出会い、復活の中を生きなければならない。そうして、語りつつそれを自ら聴きつつ、共に神の言葉が生きてはたらく証人とならなければならないはずなのだ。
 だから私たちは、言い訳をすることができない。正面から、これらの説教に向き合う必要が、必ずあると思うのだ。




Takapan
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