本

『私の聖書』

ホンとの本

『私の聖書』
串田孫一
現代教養文庫612
\160
1967.12.

 昔の教科書にはよく登場していた。詩人と言うべきなのだろうが、山についてのエッセイが生き生きしていたような気がする。フランス哲学にも詳しいので、思った以上に出会っているかもしれない。
 パスカルなどをよくご存じの方であるから、「私の聖書」というとどんな角度から聖書を見ているのだろう、と関心をもつ。古書店に並ぶ本を見つけてそう思った。  あいにく信仰をもっていたのではないようだ。しかし、教会に来たことはあったようで、内実にも詳しい。思うに、教会関係者とも親しく、信仰に誘われたが、信仰の世界に飛び込むことはしまいと自分に誓い、どうしてもその誘いには乗らなかったのではないか。推測が違ったらごめんなさい。
 パスカルを読むのに、聖書を知らないではどうしようもない。特に新約聖書なのだろうが、かなり読み込んでいる。本書は、得意のエッセイのひとつとして、イエス・キリストの生誕の場面から復活までの場面を取り上げ、それについての自分の読み方、捉え方という角度から書いた文章であるらしい。しかし、よく聖書を読んでいるという印象は十分に与える。神学の用語を振り回すようなことはしないが、平易な言葉で、聖書の深いところをよく描いている。様々な神学も相当理解しているはずだ。
 十頁少々で一つずつ場面が取り上げられ、最初は「受胎告知」であった。エッセイとしてはさすがの出来であると言えよう。だが、信仰者がこれを開くと、いきなり殴打されるような形になるかも知れない。そんなことは信じられない、という突き放したような言い方がぶつけられる。次の「聖母マリヤ」では、もっと打ちのめされるような書き方に出会うことだろう。こんなことを信じる人がいるのか、というような口調に、あくまでも常識的なゴシップ記事路線で突き進むし、アブラムシにまで喩えられるとなると、腹を立てる信者も少なくないだろう。
 しかし、である。苦々しい思いでここを通過したとしても、その後、表現はずいぶんと穏やかになっていくのである。むしろ、文化芸術の中で描かれたその場面についての作品にも触れ、豊かな色彩を帯びていくようになる。聖書についての記述も、礼拝説教で紹介されるのとそう変わらないものになっていく。むしろ、人間としてどう受け止めるのかといった、非常に誠実な聖書の読み方を経験するかもしれない。
 山を愛する人だったと思うが、絵画や音楽もお好きなようである。もちろんパスカル研究者でもあるから、パスカルも登場する。豊かな教養の部屋に招かれ、そこで聖書を開いているような気持ちになってくるのは私だけだろうか。
 時に想像を交え、イエスの頭の上に鳥がその時飛んだのだろうとか、迷った一匹の羊がどんなふうであったかとか、聖書以上に詳しい情況を思い浮かべている様子が見られることがある。この迷える羊については、筆者自身の魂についても細かく綴られている。自分は迷える羊ではないつもりだったが、もしかするとそうかもしれない、というような自己への問いかけをするのである。こんな羊を探してくれる羊飼いはいないだろうなどという思いを含め、かなり長い文章を以て、自分のことを記している。これはもう信仰まで紙一重というものなのであるが、その一線をどうやら越える要ではなかった。でもとにかく気になっていることには違いない。そういう時の人間の心情というものは、一般的にあまりこうした形で公開されることはないだけに、このような告白めいたエッセイは、貴重な証言ではないかと私は勝手に考えている。つまり、教会関係者は、ひとの心を思う上で、本書を味わうとよいのかもしれないと思うのである。少しばかり教養があり、聖書についての知識がありながら、信仰に踏み込めない人の心情である。
 かつて、加賀乙彦さんがそうだった。何故自分が信仰に踏み切れないのか迷いの中にあった加賀乙彦さんは、ある神父にとことん疑問をぶつけた。三日にわたり、まとめあげた疑問を全部ぶつけたとき、すべての疑問がなくなった。それが信仰なのだということに間もなく気づき、カトリックの洗礼を受ける。
 聖書をまず知ってもらわなくてはならない。聖書は魅力ある本である。文化や芸術において豊かな実りがある。そこからでもいい。近づいてきて、聖書を読んでもらうなら、何かが始まるかもしれないのだ。
 本書は、復活で終わりではなく、最後に「受難曲と衆讃曲」という題で、音楽の話が載せられている。これらを自由に聞けることは、信仰がない故だ、というふうに強がるみたいに書いているが、すぐそれに続いて、だが信仰心を抱いていたほうがもっと深く聴けるのかもしれない、と心が揺れている様をも明らかにしている。いや、束縛されると芸術を味わうことが狭まってしまうのではないか、と結んではいるけれども。
 正直な人なのだと思う。自分の見たものだけで決めつけず、ほかの見方をも尊重しようとしている。だからこそ、これだけ聖書を深く読んでいたのかもしれない。こうした良心的な豊かな心の持ち主が、いまどれほどいるのだろうか。教会に来ている教会員が、どれだけ聖書を深く味わっているのだろうか。なんだかそこに、寒さのようなものを感じてしまった私は、いったいどこにいるのだろうか。




Takapan
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