本

『無心ということ』

ホンとの本

『無心ということ』
鈴木大拙
角川ソフィア文庫
\795+
2007.9.

 もちろん本書は古い本である。1955年発行のものが、半世紀を経て改版され、新たな解説を加えて新装となったという具合である。
 無心というのは、東洋では比較的自然に身についているか、見についているつもりになっている概念であろう。だが、西洋思想からすれば、なんとも神秘的で、論理で割り切れないものである。ゼロの概念がないわけではなかったが、それを数字で処理するということに思い至ったのは東洋であるという。聖書の文化では、旧くに「無からの創造」という考え方が取り入れられたが、聖書の由来は西洋ではない。無は無であって、無そのものでしかない、というふうにしか考えられないことなのだろうが、ここで、禅の紹介で世界的に知られる鈴木大拙による、分かりやすい話が続いており、一般の立場で読むのにも相応しいものとなっている。
 というのも、これは浄土真宗の人々への講演がまとめられているからである。そのため、親鸞や浄土真宗の教えについて触れられることも多く、その故にまた、ただひたすら禅などという論理でもなく、多くの人に親しまれる形で説明がなされているという面があろうかと思う。
 無心、それは仏教思想の中心であり、東洋精神文化の枢軸をなしていると思う。このような宣言が「序」に記されている。その姿勢で、「無心とは何か」に始まり、「無心の探究」「無心の活動」「無心の完成」と高まっていくが、これらの章は、一つひとつ短い項目でつながれているために、読み手としても区切って理解しやすく配慮されている。一気に読むのもよいが、細切れに親しんでいくのもひとつの読み方であろうと思われる。
 さらに「無心の生活」そして「無心の体験」として、無心ということを様々な文献や資料を駆使してずっと紹介してなんとか伝えようとしてきたことが、生活と生き方の中にどのように現れていく可能性をもっているか、読者を引きこんでいく。
 英文で、外国人のために禅を中心とした日本文化を伝えることを生涯の使命として努め続けた著者である。西田幾多郎の親友として交わりをもち、刺激し合ったこともあるだろう、その哲学的な眼差しと、なんとか宗教を伝えようという姿勢は、物事の述べ方や表現によく現れていると思われる。そもそも無心というものを、論理的な言語で解明するということは、不可能といえば不可能である。何かを言ってしまえばそれはすでに無ではないし、言わなければ何も伝わらない。著者が体験し知るところを伝えるための努力の積み重ねが、こうした本になったということであろう。
 キリスト教にも理解が深く、随所でそれが持ち出される。非難するためではない。比較対比のためであり、これを知らないと、西洋人に禅を伝えることは難しいであろう。その意味では、私にも近づきやすい部分が多かったと言えるし、むしろキリスト教の考え方がそれなりに興味をもたれ知られる機会が多くなった現代、言葉にならないような禅の思想が胸にストンと落ちるためには、いまこそ迎えられるべき書であるのかもしれないと感じた。祈りというもの、神の御心なるもの、そうした事柄の中に、つねにここにある自分なるもの、そこが実のところ問われていたのだとも言えるであろう。
 禅はしばしば、意識を無にすること、木石のごとくなることだと喩えられるが、それで済むものではあるまい。そもそも物になれるかどうかという点もあるが、物に喩えてしまうこともまた限定され有に過ぎないということになるであろう。
 また、無心ということを無分別という言葉で表現したにしても、そこからまた分別の世界に戻ることが求められる。無心とは無分別のことなのだな、などと考えると、その無分別なるものをひとつの対象として、自分とは離れたなにものか有るものとなってしまうことであろう。
 このように、どこまでいっても堂々巡りのような論理であるが、そもそも言葉にするということそのものが無理と言えば無理なのである。禅問答という言葉があるが、何かを問えば、師がただ叫ぶなどというような事態も当たり前かもしれず、無心というものはどこまでも把握できない代物である点は否めないものだろう。
 だから、素人が蘊蓄を重ねてもダメなのだ。鈴木大拙という人が一生をかけて貫いて生きて、その最高の頭脳をもってして、ようやくいくらかの本となったという具合であるから、私たちはこの声に耳を傾けてみればそれで十分であろう。ここから何を聞くことができるだろうか。
 ただ、仏教を汎神論だなどとまとめる考え方があるとすれば、これは「深刻な見当違い」だというあたりで本書は結ばれる。むしろ仏教は「心理が基礎になっている」という見方を示し、そこに汎神論などは微塵も見られないのだと力説する。心理、即ちある種の体験というものが必要なのである。私たちの生き方そのものに関わり、つねに生き方の底に流れているものでなければならないはずなのである。これをもしも論理化することができるとすれば、それは「日本哲学者の任務」であるだろう、としている。まるで、西田幾多郎を読めとでも言っているかのようでもあるが、こうして「無秩序ながらも、大体おいて愚考するところを上来略述した」という辺りで著者は本書を結ぶ。まことに、無心にはなれないものだが、この問題について関心をもち、少しでも考えてみようとするときに、本書を外すことはできないだろう。
 新しい解説によれば、オウム真理教の信者もまた、無心に教祖の言葉に従った、というふうに理解する可能性が明示されている。どんな高尚な概念でも、人間はどんなことでもしてしまうかもしれないという警告である。私たちは、ヒトラーの時代を含め、この宗教事件、否西欧の歴史上における教会と国家との関係などをも、もっと省みる必要があることを痛感させられる。無心ということひとつをとっても、私たちに与えられた課題は、まだまだ沢山ある。自らそうした罠に陥るかもしれないことを考慮しつつ、私たちはまだまだするべきことがたくさんあると言えるだろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります