本

『音楽する脳』

ホンとの本

『音楽する脳』
大黒達也
朝日新書
\810+
2022.2.

 音楽家の頭脳を大解剖。これはいかにも発行社のウリにかかった宣伝文句だが、たぶんそんなものは必要ない。これは絶妙なヒット作だ。もしさほど売れなくても、私は「ヒット」だと思っている。
 サブタイトルは「天才たちの創造性と超絶技巧の科学」となっている。これも、売り手の狙いのような気がする。筆者はもっとストイックだ。ちっともそんなセンセーショナルなつもりはないし、軽い調子ではない。
 著者自身、音楽についてのプロであると言ってよい。作曲ができる。また、中に書いてあるが、子どものころから並々ならぬ関心をもって音楽に触れ、音楽と戯れている。しかし脳科学的な方に研究を進め、立場は医学博士である。本書発行時まだ30歳代である。実に頼もしい。
 いきなり「風は見えなくても風車は回っている。音楽は見えなくても心に響いてくる、囁きかける」という、バッハの言葉から始まる。音楽は目に見えない。だが人間は音楽を必要とする。音楽に感動するというのは、どういうことなのだろうか。それを、脳との関係から迫るのだと宣言する。
 脳に注目するのだという点を明らかにしながら、本書の構成について、頭の中に溝をこしらえてくれる。こうした紹介は親切である。ネタをばらすようでためらう著者もいるだろうが、読む方からすれば心構えができるので、助かることが多い。そこで、ここを引用すると、本書のあらましが全部ここに流されてしまうことになる。それはやめておく。
 数学と音楽との関係は、ピタゴラスの理論を紹介するのが目的であるなら、もっと別の説明の仕方がある。だが、その内容を伝えようとするのではないから、そこから平均律へつなぐ役割を果たすばかりである。そう、平均律は、音の並びからすると、音階としては正しくないのである。そこからいわゆる無調音楽の話になり、シェーンベルクが登場する。この人については、後にもまた触れられる。
 この著者の叙述の特徴らしいものを感じた。それは、同じエピソードや同じことの強調が、何度か繰り返し登場することだ。古代人が現代の音楽を聞いても、聞き方を知らないので分からないだろう、というような点は、事あるごとに指摘される。時にくどいようにも思えるが、実はこれが大切なのだと私は考える。授業でも、大切なこと、生徒の心に必ず残したいことは、教師は繰り返す。そうして、生徒もそれが大切なのだという点に気づく。本書でも同じで、このように脳が聞くことへと育っていくことは、音楽を味わう中でどうしても必要なことなのだ。そのことはいくらでも強調されて然るべきなのである。
 章は五つある。各章の終わりに、「注」がある。これがなかなか利いている。そしてそれに続く「参考文献」、これが半端ない。殆どすべてが洋物である。これは完全に学術論文ではないか。一般読者の誰が、ここに目を落として肯いたり、読んでみようと思ったりするだろうか。だが、著者は手を抜かない。どんなに多くの根拠がこの問題を支持しているのか、関係する考え方が各方面にあるのか、そして読者がもし関心をもったらその案内によるようにということなのだろう、すばらしい文献表である。
 音楽ということについて、宇宙の音楽というのは、近代科学の中でが私には印象的だったが、古代の考えに基づいているということを教わった。その話から、次第に本格的な「脳」の問題に本論は入っていく。こうなると著者の専門分野である。かなり立ち入った説明も入り、直接音楽とは違うところも案内されるが、ここを一度通過しておけば、次にいよいよ作曲の時の脳、演奏する時の脳のメカニズムのようなものの話が楽しめるようになる。
 私も作曲はする。その時、どこかで聞いたことのある曲が影響するというのはありうる。また、潜在的にそれがあったにしても、とにかくこれは自分の世界だ、自分の曲だ、という思いも同時にある。時に世間では、曲が似ているということで訴訟問題にも上がる。だが著者は、この問題を、そのような角度から片付けようとは考えない。脳が、統計的な観点から、次の音を予測する働きをしているためだ、という点をメインにもってくる。そして、余りに予想通りにフレーズが運ばれる曲にも人は厭きるし、かといって余りにも予想を覆し続けるメロディが押し寄せてくると不安で聞いていられなくなるのだという。ここが大切な指摘である。そして、その意表をつくような流れであっても、それに慣れてくると、つまりそれを予測の範疇に入れることができるようになると、そんな不安にはならず、心地よさにもなるのだろう、というのだ。シェーンベルクも、聞き慣れてくれば十分趣味の範囲に入って楽しめるのだ。そして、だからこそ、その聞き慣れるという予測とは分断されたところにあるであろう古代人が、今の時代の音楽を聞いても、音楽として認識できないだろうということになるのである。
 実に多くの作曲家や演奏家のエピソードも出てくる。特に「共通感覚」のところは興味深かった。リストが、指揮者として「この音は黄色に!」などと指示をしていたのは有名な話だそうだが、門外漢にはそんなことはない。こうした楽しい話も続々と飛び出してきて、読む者を厭きさせない。
 演奏家が、音符の音を一つひとつ拾って奏しているわけではないことくらい、わずかでも楽器を触る私には分からないはずはないのだが、それにしても、脳の中でどのように捉えて奏しているのか、そういう点の説明はまた面白い。脳がどのように捉えて指が動いているのか、ということである。ピアニストが、実際にピアノに触れなくても、イメージトレーニングだけで弾けるようにできるという点には驚くばかりである。私はピアノは弾けないので、弾ける人が羨ましかったが、やはり何かか根本的に違うのだ。
 コンサートが始まるとき、幕の向こうで突然、ジャーンと音が鳴り始めたとき、ものすごく気分が昂揚する。そのときに神経細胞が「大爆発」をするのだ、という説明には思わず膝を叩いた。そうか、脳なんだ、と信者になりそうになった。
 最後の方にくるのだが、失語症と音楽との関係の話に入ってくると、私は襟を正されるような思いがした。同様に、認知症にも、音楽がよい方向を与えているという話も出てきた。そうだ、音楽療法というものがある。それが、ここにおいて脳科学の面から理由づけられるのである。そして、音楽と言語との関係がつながってくると、一読者として感動を覚えるばかりだった。心の中には、言語化できないものがある。それを助けるのが音楽なのだ。人間の本質的なところに、音楽があるのである。
 最後の「あとがき」、これには涙しそうになった。研究者たるもの、音楽の良さを、できるだけ多くの人に知ってもらえるように述べていくべきなのだ、という使命感。そんな中、コロナ禍において、音楽など必要ないなどという声すら、さも正義そのものであるかのように響くことがあった。だが、ドビュッシーは言う。「言葉で表現できなくなった時、音楽が始まる」のだ、と。音楽は、自粛すべきものではない。音楽は、人の命に関わるものなのだ。逆に言うと、音楽は要らないとする考え方の元になったであろう「経済」と人がいま信じているようなものが、如何に人間を棄てにかかったものであるか、ということを私は改めて知るような思いがするのであった。そういう言語化が、音楽を背景にしてできるのだとしたら、私が音楽を聞きながら文章を綴っていることも、何か当然すぎるほど当然のことであるように思え、勇気づけられるのであった。




Takapan
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