『村に火をつけ、白痴になれ』
栗原康
岩波現代文庫
\1120+
2020.1.
伊藤野枝伝である。文庫の表紙の写真が、なんとも象徴的な眼差しを向けている。
これは小説なのではないか、と錯覚する。こんなことが現実にあるはずがない、と考えたくなった。まさかこんなことがあるとは、思えないのだった。
著者は、アナキズム研究で知られる。だが、そんな前置きを知らなくても、読んでいけば分かる。評伝として資料から得た出来事を、かなり想像で補って、物語が展開されてゆく。その心理を、臨場感ありありの言葉で提示してゆくのだ。それがまた実に面白い。完全に、イケイケどんどんである。確かに、スーツ姿でかしこまって語っても、伊藤野枝のことは紹介できないだろう。勢いによる自由で奔放な言動が、余すところなく伝えられるためには、この口調が一番だ。
タイトルからして不穏だが、これをシンボルにもってきた著者の、沸き立つ心とでもいうものがほとばしっていると思う。最後のところでやっと登場するのだが、読者はもう最初から、その路線を期待するようになる。
「はじめに」は、著者が今宿を訪ねたときの話から始まっている。福岡の私にとっては、もちろん馴染みの場所である。市街地から糸島へ向かう間に位置するが、殆ど糸島寄りである。そこにあるはずの野枝の墓は、地元民でも知らない。知らないどころか、そんなものが存在することを認めたくもない人がいるのだという。「国賊」という名で一蹴し、地元からそんな人間が出たことなど、歴史の中から消し去りたいようなのである。
大杉栄と、最期は過ごした。関東大震災の混乱の中で、アナキストは何をするか分からんということで、さしたる理由もなく捕らえられ、偶々一緒にいた大杉の6歳の甥と共に、官憲の手によって惨殺される。その惨さも本書に、悔しさの怒りと共に描かれている。
著者は、野枝の視点を保ちながら、その生涯をそこまで辿っていた。私も、同じような気持ちで読んでいった。読む方の中には、もっと突き放した目で読む人もいるだろうし、好き勝手して馬鹿な女だと批判の目しか向けない人もいるだろうとは思う。そのアナキズムの考えも、ありえないと毛嫌いする人がいて当然である。だが、労働者たちが、そして当時の女や結婚制度が、奴隷制の中にすっぽりとはまっているということについては、私は尤もな考えだと思っている。だから社会をなんとかしよう、というふうに動かないのが私の鈍さだが、哲学的に見るとき、彼らが指摘していることは間違っていない、というふうには考えている。そのため、私はかなり彼らの身に近づいて読み進むことができた。
野枝は貧乏の中で生まれた。頭脳は明晰であったのだと思う。女学校に行きたいという願いは、東京の叔父に預けられることで叶う幸運に恵まれた。卒業後、今宿に戻り嫁がされるが、家を飛び出す。東京の教師だった辻潤を引っかけるようにして生活をするが、平塚らいてうへ出した手紙がきっかけで、青鞜社に入る。らいてうの事情もあってその編集の座につき、女性に関する様々な論争を展開する。辻の浮気で切れた野枝は、大杉栄と知り合い、そちらに流れる。なお、野枝はセックスに関しても奔放な考えと実行とに明け暮れ、子どもをそれぞれでたくさん産んでいる。
大杉はアナキストである。野枝の女性や労働に関する考えと十分重なるものがあり、野枝の言動はどんどん過激になる。貧しさから内務大臣後藤新平へたれ込み、有名な言葉がここで発される。「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」と。後藤は個人的に援助をしてくれたが、アナキストでありつつも、大杉や野枝には、比較的よい対応をしてくれたようだ。そのため、軍か政府だかが二人と甥を虐殺したことを知って怒り、事を明らかにしたとも言われている。
また、このとき米騒動があったことも、アナキストとしては納得できるものだった。まともな人間として扱われていなかった女性たちが立ち上がり、権力や豪商たちに実力行使で人間の底力を示威したのだ。歴史の中でただ年号としてしか覚えないこうした背景について、私もまた新鮮に、そこに生きた人々の息づかいのようなものまで感じさせてくれるという意味で、本書の文体は実によかった。
大杉と共に『文明批評』や『労働運動』といった本を出し、言論活動を活発化してゆく。大杉は世界を渡り歩くが、それは世界で労働運動が盛んに行われていたことを意味する。日本では労働運動が認められていなかったため、ILOに対して政府は、労働者ではなく役人を送ったこととなり、アナキストたちは激しく抵抗する。
1923年、8月に最後の子を出産すると、9月1日に関東大震災が起こる。そのどさくさの中で16日、憲兵隊に拘束され、虐殺されるに至った。
それを読むと、私は、イエス・キリストの惨殺というものについて、改めて見出されるべきものがあるような気がしてならなかった。もちろん意義としては比較にならないが、伊藤野枝の話で感じることを、イエスの十字架に対するときには、忘れていなかったかと、ふと心に刺されるものを覚えたのだ。
さて、野枝の生涯を辿ると、凡そこういうふうではあるのだが、ハチャメチャと言えばハチャメチャである。だが、百年後の今になって、ようやく世の中も野枝を見直す動きが始まっている。少子化のために政府がまた「産めよ増やせよ」の声をつくりはじめている。だって国の持続のためには必要ではないか。まるで戦前戦中の合言葉と同じことだ。それだから同性愛は国のためにならず、そんな者の生活を法的に守るようなことは言語道断、という発言を正義の名のもとに発する政治家もいる。これでは、野枝の叫びは尤もなことだ、というふうに聞こえてくる。もちろん、過労問題もあれば、米騒動を招きかねないような農林水産大臣の発言もあるような現代であるし、女性の賃金や女性政治家のことも含めて、労働者や女性に関する問題も、実のところ野枝の指摘がいまも通用する場面が幾らでもあるような気さえする。
本書の「解説」で、ブレイディみかこ氏が、いまの世に「野枝性」が必要である、という意見を載せている。イギリスの政治に対して強い関心をもち、日本にその報告をもたらすみかこ氏の眼差しは確かであろう。確かに「鮮やかなまでに、いい加減」ということがそのまま誰にも似合うわけではない。しかし、「いい加減さ」の中にもポジティブな面があることを指摘するのだ。それは「しなやかさ」だと。みかこ氏も、福岡の女性であり、たぶん今宿とそれほど離れたところにいたのではないはずだ。
2016年に発行された本書が、2020年に現代文庫という形で手に取りやすい形で再現されたのはよいことだが、「岩波現代文庫版あとがき」がここには付せられている。「いつも心に伊藤野枝を」と結ぶこの文章は、なかなか味わいがある。その意味では、こちらの岩波現代文庫をお薦めしておきたい。

た
か
ぱ
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ド