本

『ムカツクからだ』

ホンとの本

『ムカツクからだ』
齋藤孝
新潮文庫
\476+
2004.6.

 まだ著者が若いと言える時期だろうか。だがすでに「にほんごであそぼ」の監修もしている。著書もわりと出しており、すでに「身体感覚」についての言及も多い。そういう時期に、ひとの関心を惹くであろうひとつのキーワード「ムカツク」をベースにして、基本的にその一言のために文庫本を一冊書き上げたことになる。否、元々は単行本だった。『ムカツク「構造」』に加筆してできた文庫であるという。
 いま読んでいたのは2025年。ざっと20年経っている。中高生を中心として、「ムカツク」と言いまくっているという話は、いまはどうだろうか。それほど気にならない。だから、本書の賞味期限は切れている、と言いたいところだが、本書の要点は、ただその「ムカツク」という語にまつわるだけのことではないと見なせるだろう。
 つまり、「身体論」という分野に著者のひとつの専門性があるわけだが、この言葉が、どのような身体に基づいて吐き出されるのだろう、というところが鍵なのだ。  もちろん素人目にも、語彙の貧困から、とりあえず「ムカツク」と口にしてしまう、という件についてはよく分かる。その場合、必ずしも「ムカツク」でなくてもよい。「カワイイ」しか単語はないのか。「ウソ、ホントー」だけ言っていれば仲間でいられるという文化がそこにあるのか。そうしたことに、一種の非難の目を向ける、という大人の気持ちも分かるわけだ。しかし、どういうところからそうした無意味な、しかし単に口先だけではないような言葉が反射的に出るようになっているのか、それを考察するために、一冊を用いるのは、少しばかり贅沢なことではあるが、そういう姿勢が、私たちにはもっと必要であるだろうと思う。
 本書の読みやすさというのは、最初の方に顕著なのだが、いろいろな現象を挙げて考察してみたものの、要するにそれまでに何がはっきりしたか、という「まとめ」を章毎に提示してくれる点にあるように思う。その辺りもさすが教育者である。授業を一つ終える毎に、内容の確認をしておく、ということである。これは読者にとり、実のところ大変有り難い。何が要点であるのかについて曖昧でいると、その後の論理を辿るときにも、道を見失ってしまったり、違う道に迷ったりするかもしれないからである。
 もちろんその論理をここで辿るようなことは遠慮するが、専門家の意見も時折紹介するし、若者の現象や発言を並べもする。そのとき、高校生の女子、大学生の男子、という程度に、発言者の分類を示しているのがいい。どういう年代でそうした意見を提示したのか、それは大切な情報だからだ。そのとき、概ね、大学生になると「ムカツク」という語を発しなくなる傾向が見られた。大学生くらいの成長を遂げると、「ムカツク」を連発することが、自分の価値を低くすることに気づくのである。だが、高校生までの場合には、なかなかそこまで気づけない。
 しかし、「腹が立つ」といった言葉と「ムカツク」と言うこととの違いはどこにあるのか。著者は事例を重ねて考察し、そこに、いわば「心配」と「不安」のような差を認める。「腹が立つ」ことには対象が意識されており、「心配」に匹敵する。しかし「ムカツク」のは、何に対してどのようにムカついているのか、本人もよく分からないでいるようなのだ。しかも、それは意識的ではないから、いわば瞬間的に湧き起こり、とりあえずすぐに消えるものであるのだという。
 そうして、この「ムカツク」は、身体にまつわる語である、という本質的な議論に踏み入ってゆく。それでタイトルが『ムカツクからだ』なのだ。何かしらエネルギーが溜まっているところに、捌け口が見出せれば、そこに出てゆくのが「ムカツク」となる。
 多少ネタばらしのようになるかもしれないが、「ムカツク」に対する根本的な対策は、実りある退屈に希望を者を集めてって耐える力」を育てることにある(p216)、という。だがこれだけを引用しても、その意味は伝わりにくいであろう。詳しくは本書をお読み戴くことにしよう。
 また、溜まったエネルギーを適切に使うためには、学びを軸にした新しい友との出会い(p225)がよいだろうと言う。さらに、読書量が激減している事実を挙げ、読書に活路を見いだすことも、本書の終わりへ向かう大切な道である。言葉を音から体得するのが、監修するEテレの番組の極意であったと思うが、読書の効用は、教育者たる著者の願いでもあるだろう。それにしても、20年後にもまた、一冊も読まない大学生や高校生の姿が社会問題化しているが、本書の時代には、スマホが彼らの生活の中にはなかった。ポケベルとなると、中高生には扱い難い場合があったし、なにぶん使い方の制限が著しかった。当時すでに「読書離れが続いている」と言わせていたことが、スマホ時代になって、あるいは経済的事情も相俟って、ますます死滅に近いようになっているのかもしれない、と懸念する。尤も、読書量が半端ない若者も一部いるのであって、要するに二極分化していると言ったほうがよいかもしれないとは思う。
 何としても読書の習慣をつけさせるという不退転の備えが、現実を動かす(p235)、ということが、教育の現場に提言されている。
 ユニークなのが、巻末近くにようやく提示される「ムカツクの構造」である。これが最初の単行本のタイトルでもあったのだが、他の美意識との関係を示した立体的な図が、ムカツクの位置づけをするのである(p253)。これは、『「いき」の構造』や『甘えの構造』へのリスペクトだというが、なるほど、それらはどちらも私は知るが、あいにく本書は、それらほどこの構造にこだわっているようには見えない。巻末にさりげなく紹介するくらいでなく、もっと大きく全体に響かせていたならば、「構造」が中心であるとしてもよかったであろう。だから、単行本のタイトルにあった「構造」を、文庫本では表に出さなくなったのではないか、と推測する。
 自分の身体には、自分のペースというものが備わっており、そこから自分らしい言葉が生まれもするだろう。しかし社会的には、つまり他者との関係の中に於いては、他のペースと付き合ってゆかねばならず、自分の身体のもつ形や動きが、そのまま適用できなくなることがあるだろう。そのときのズレが苛々を呼ぶことがあるかもしれない。自分の身体性とスタイルを捉え直すことが求められる。また、そのためにも、自分というものを知る営みが望ましい。自分の経験を言葉で捉え返す習慣(p273)が求められる。そしてそれを得るのが、読書の習慣化なのである。それができたとき、きっと「ムカツク」を若者は卒業することであろう。
 20年後、「ムカツク」という音は、殆ど消えているように感じられる。だが、表面上流行語は入れ替ってゆくものであるにしても、身体が追いついていない苛々した言葉は、さてどういう形でいま息づいているだろうか。あるいは、それが表に出ないほどにも、若者は言葉を呑み込んで、ひたすらエネルギーを溜めこんでいるのだろうか。もしそうだとすると、プレートに蓄積された歪みが大地震を惹き起こすように、強大な力となって爆発するときがくるのかもしれない。それならそれでいい。如才ない大人の言論術に、簡単に巻き込まれていって、世界を破壊する動きのための一兵卒にされないことを、願うばかりである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります