本

『無縁社会』

ホンとの本

『無縁社会』
NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編著
文藝春秋
\1399
2010.11.

 2010年の新語流行語大賞のトップテンに輝いた言葉、「無縁社会」。流行語としては、かなり哀しい意味がこめられていたかもしれない。折しもこの年、所在不明の超高齢者なるものが次々と発覚している。荒唐無稽な200歳なる人が戸籍の中で生存していることになっているなど、笑う他はないような事態もあったが、高齢者の行方を誰一人知らないというのは、都会のみならず、現代社会の、まさに影の部分を明らかにした事件であった。
 NHKの取材は、この事態の発覚以前に始まっていた。本の副題に「"無縁死"三万二千人の衝撃」とある。一年間の自殺者が3万人を超えているという事実も衝撃的ではあるのだが、それと同等の人数が、近親者にも弔ってもらえない形で葬られている、いわば「行き倒れ」になっているのだという。江戸時代の話ではない。落語どころではなく、この現代社会にである。
 行旅死亡人というのが法的な名称なのだそうだ。情報は、官報で公開されている。遺体の発見状況や着衣などの情報が文面で記されている。今ではインターネットで見ることもできる。もちろんすでに火葬にはされているのだが、遺骨を引き取りに来る人が現れるかもしれないということで、そうされているのだ。
 しかし、それでどれほどが分かるかは疑問だし、たとえ心当たりがあったにしても、もはや引き取りに来ないということが多いようである。
 無縁墓地などという言葉はあった。多くの人が生き死にする中では、家族や身よりのないままに死んでしまう人、あるいはあの法的用語のように、旅の途中で死んでしまう場合もあったことだろう。縁のある人に看取られず、あるいは葬られることのない人も、中にはいたのだ、という意味で、無縁仏などと読んで供養するということが、昔からあった。だが、そのような個別のケースだと言えないものがあるのではないか。NHKの中で問われて、追究されたのは、この社会全体である。現代社会全体が、無縁性に染まっているのではないか、というようなことである。  学術書ではない。フィールドワークである。幾人ものケースを追いかけている。行旅死亡人となった人の背景を追いかけていく。あるいは、そうした立場に近いようなところに置かれている人に寄り添って取材する。この本は、単なる行き倒れ同然のような場合だけでなく、家族が遺体の引き取りを拒否する例や、未婚のまま身よりなく死んでいくケース、家族がないのでなんとか仲間で集まって面倒を見合おうとする動き、とくにいわゆる「おひとりさま」と呼ばれる女性の心理、また、この番組が放送されたときにネットにおいて強い反応があった、若者たちの不安などが、章立てされて畳みかけられていく。
 ことに、若い人々の間に大きな反応があり、自分の将来がまさに無縁社会の指摘するそのものであるという不安がネット界に走り回ったという指摘は、さもありなんと思われる一方、この問題が老人や病人の問題をすでに超えていることを物語っていた。つまり、恐れていたことではあるが、本当にこの社会自体が本質的に、無縁性を帯びてしまっているということなのだ。
 正月には、親戚一同が長男たる立場のところに集まり、年始の挨拶などを交わす。そういう習慣を、私は子どもの頃から見ていた。その時にしか合わないような親戚もいたし、従兄弟もいた。だが、血縁のつながりというのはそういうものだろうという、暗黙の理解もしていた。今、そうして親戚を集めていた年齢的立場に自分はいることになるが、もはや親戚が集まるなどという機会は、まるでない。結婚式にしても、それほどの集まりが期待できない。あるとすれば、葬儀であるかもしれないが、それとて、遠方にいれば出席するということもまずない。このような変化だけで、私は十分予想することができていた。これは、無縁社会は当然である、と。
 さだまさしの小説に、そのような人の住んでいた部屋を掃除する仕事に就いた若者の話があった。そうしたビジネスが増加しているという。必要だからだ。親類縁者が後始末をするというものでもない。ビジネスの中で、金銭処理で、そうしたいわば嫌な後始末がなされていく。できるだけ誰も手を汚さず、金で解決する。まさに、「縁」というものを欠いた有様ではないか。
 流行語などと言っている場合ではない。不安を隠しながら、その時さえ楽しければいい、という表看板で社会が動いていく。そこに不誠実を覚えた真面目な者は、ひきこもっていくようなことにもなりかねない。だが、そのひきこもりそのものが、無縁性を強くしていく。会社人間が会社から離れたとき、人はつながる相手も、基盤もなくしてしまうのだろうか。
 私は、キリスト教会がどんなに本来すばらしいところであるか、を再認識する。教会がなぜすばらしいのか、それをまた言葉にしていく必要があるであろうことを改めて知った。これもまた、一つの福音となることは間違いない。




Takapan
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