本

『主よ、用いてください』

ホンとの本

『主よ、用いてください』
日本キリスト教団出版局
\1500+
2019.6.

 キリスト教雑誌『信徒の友』に掲載された、「召命から献身へ」というテーマに沿う証詞の記事を、2008年から集めて一冊の本にまとまったものである。
 名うての伝道者や牧会者の名、またシスターやブラザーなどの顔も並ぶし、私の存じ上げない人も見られるが、この召命と献身というあり方については、非常に関心がある。その意味で、人それぞれの歴史を垣間見るというのは、同時に神の業を見せて戴くようなものともして、楽しみであった。
 一人分の頁数は限られている。その中でなにもかも述べるわけにはゆかないだろう。だがそこはふだんの説教者、与えられた場で、必要なことを十分に伝えるということについて、困難を覚える人はいないだろう。
 一人ひとりをここに取り上げるのは適切でない。どうか直接、それぞれの証詞を皆さまが味わって戴きたいと思う。それで、漠然とした印象で感想を述べることをお許しください。
 私はかつて、牧師や伝道者の証詞をよく聞く機会があった。母教会の牧師はもちろんであるが、特別伝道集会で、よく知られたエヴァンゲリストをお呼びすることもあり、そうしたときにしばしばそのような証詞が混じるのも当然で、いろいろな、救いや献身の有様を見せつけられてきたのである。多くの場合、劇的な出来事があった。あるいは決定的な何かが及び、回心するという経験があった。そしてまた、神から逃げまどいながらも、ついに捕まって神学校へと導かれた、というような話も多々あった。
 もちろん、そういういわば派手な経緯を辿り信仰に導かれたり、献金に導かれたりした人も当然多いだろうが、そうした経験がある人は容易にそのことをまた証しするだろう。他方、地味な敬意の持ち主は、わざわざそのことを語ることはあまりしないものだろう。そういうわけで、証詞を聞いたということは、その前提として、大きな事件を伴う人の場合になる、というのも本当だと思う。だから、いくらか割り引く準備もある。何も献身者が皆、劇的な出来事を経てそうなったのではないのだ、と。
 しかし、である。
 本書に取り上げられた33人の、飾ることのないその生き方と神の業であるが、私が予想した以上に、地味なのである。まるで自分の決心で選んだというだけのような書き方をしている人が多く、いつの間にかそのような道に入っていた、というようなものも少なくなかった。ここが意外だった。
 また、親が牧師であるとか、小さなころから熱心に教会学校に通っていた、という例が多いのは、分からないこともない。そのような場合、逆に、自分が教会にいるのが当然の前提であって、その中からいざ召命、というチャンスに乏しくなるというのも、理解できる。だから、何も劇的な回心がなければならない、とは思わないのであるが、それでも、神の言葉に導かれたというような書き方をしない人もいるというのには、正直驚いたという次第である。
 もちろんなかなか神に振り回された人もいる。そしてその曲がり角で、神が御言葉となって迫ってくるのである。そう、私が期待したのはそれである。現実に派手な出来事がなくてもいいから、道を左右したのは神から聖書の言葉が干渉した事件として、自分を動かし、変えた、というあり方であってほしかった。だが、聖書の言葉が自分を導いたというような証詞も、そんなに多くないのである。いったい、人の思いが決定的な案内役となって、その「職業」に就いたというのであろうか。
 そんなことはないだろう。表に出さないにしても、神がその言葉で道を指し示したのは確かだろうと思う。ここには書かれていないものがきっとあるはずだ。だとすれば、それを心に秘めず、教えてほしかった。神と自分との秘密も当然あって然るべきだが、神の栄光を現すという意味で、何か教えてほしかった。
 一人ひとりは取り上げないと言ったが、小嶋三義牧師だけは少しご紹介したい。ろう者伝道担当牧師であるという。耳の聞こえなくなった弟のために、自分の使命があると見出したのである。視覚でのみ理解できるろう者へ伝道するのに、いまの教会のあり方ではできないという中で、聴者とろう者の共存の中での伝道が必要だと理解していくのだ。それは難しいけれども、それを導くものが、御言葉であったというのが、私はうれしかった。それは真実だと思った。ろう者にとり、本当に一致した礼拝となっているように見えているかどうかは知らないが、ひとつの希望が確かにそこにあるものだろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります