本

『モーセ五書の伝承史的問題』

ホンとの本

『モーセ五書の伝承史的問題』
R.レントルフ
山我哲雄訳
教文館
\2500
1987.5.

 原著は1976年であるという。そういう時代の生々しい神学論争の風を届けてくれるような一冊である。詳しい研究であると同時に、主張もはっきりしているために、著者の息吹を感じることができる。それはまた、訳者の巧さなのかもしれない。
 モーセ五書とは、旧約聖書の最初の5つの書である。時に、それに続くヨシュア記をも含めて六書と称する声もある。五書は、ユダヤ教で最も大切な部分と見て、律法と称するものである。法律も多く記されているのであるが、内容は物語が多い。特に創世記は、果たしてそれを誰が見たのかと揶揄されることがあるほどに、神話のようにすら見られている。しかしこうした物語は全世界で知られるようになり、小さな一国で尊ばれている神話とはもうすでに別格のものとなっている。それは、普遍的な真実をそこに人間が見出したからである。
 ユダヤ人だけの書物ではない。ユダヤ地方の伝説ではない。人間にとり真理と呼ぶに値するものがそこにある。そのような物語であり、神と人間との出会いの記録である。
 ならば、いま私と神との出会いの物語がそこに重なってきても何もおかしくはないし、実際そのようにして信仰をもつというのが基本である。イエスでさえ、この旧約の中に自分を見出したのである。
 五書はモーセ五書とも称され、出エジプトの指導者であったモーセが記したと伝えられている。しかしモーセ自身の死が記されているばかりでなく、全部がモーセであるのかどうかは伝説に過ぎなかった。この五書としてまとまって伝えられている文書、すんなりそうですねとはいかない事情がある。いきなり創世記の最初のところからして、全く別のエピソードが並記されているような姿をとっており、まとまっていないのだ。私たちから見て矛盾としか思えないような記述はそこかしこにあるのも事実である。しかし、信仰が絶対的な権威をもっていた時代には、それに異を唱えることは生きていけなくなることさえ意味したから、公にその疑いが立てられることはなかった。それが自由主義神学とまでいかなくても、次第に学問として発言できる素地ができ、研究が始まった。
 要するに、そもそもこれらの書がまとめられた過程を明らかにしたいという調査の中で、どうにもこれらの書は様々な文書の寄せ集めではないだろうかというのである。
 ではどのように集められたのか。これが五書の文書としての問題である。そのために、この文書がどのように分けられ、またそれぞれがどのようにして成立し、どのような特質をもっているのか、それを明らかにしようと努めるのが、伝承史的研究である。区別しにくいが、その具体的な方法としての様式史的研究と、編集史的研究とがそこに含まれていると考えられ、本書でも、そのすべてとは言わないが、これらの視点を基に、モーセ五書の成立の背景について一定の主張を、多くの論拠を示して提示している力作である。
 しかしレントルフがこの本で伝えたいことは、日本語版のために書かれた序文の最初に宣言しているように、「本書は、五書が、かつてそれぞれ独立した文書著作として存在していた「諸資料」から合成されたものであるという、十九世紀以来支配的であった見解と訣別することを目指すもの」である。この文書資料についての研究は、J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)として分類した上で始められ、それらを五書としてまとめあげていく編集者を要請していた。一定の構想の中で、あるいはそれを神学と呼んでもよいだろうが、資料を編纂してひとつにまとめたのだ、という考えを否定し尽くすのが本書であり、学界に衝撃を与えたと言われている。
 思えば、詐欺師の策略にのせられるのは、相手の敷いたレールを走らされるからであって、そうではない道のことを考えると、その詐欺師の誘いの中に「ない」ものがあることに気づき、嘘が分かるという場合がある。学説が詐欺であるというわけではないが、論理の上でも、「ある」ものを示すことは比較的容易だが、「ない」ことを示すのは難しい。本書に触れて感じたのは、これこれの部分には何々についての記述がない、という発見である。たとえば出エジプトの一連の記述の中に、イスラエルの父祖たちの話が「ない」ということから、一貫した神学のもとに編集されたとは考えられない、などといった論じ方が目につくのである。「ない」ことへの着目は、大いに刺激になる。
 レントルフとその周辺についての、研究者の業績の関連については、巻末に訳者の「解説」があり、これが簡潔で使うのに便利であろうと思う。
 私はこの方面について無知に等しく、フォン・ラートやノートのこの研究についても邦訳があるにも拘わらず、読んだことがない。それに触れる前に先にこのレントルフを読んでしまったからには、もしかすると今後それらを読むにあたり、偏った見方で読んでしまいそうで怖いのであるが、しかしレントルフも言っている通り、この問題は、よほど古代の画期的な文献でも見出されない限り、解決は不可能な問題であろう。私たちは謎解きを楽しみ続けるほかはないのかもしれない。だが、その謎解きそれ自体が、個々人の信仰と聖書に対する姿勢の出来事であり、物語となる。唯一の真理を探し出す結果だけが目的なのではない。私たち一人ひとりが、ここから神とどう出会い、交流するかが、それぞれに大切な営みとなるはずである。そのために労してくれるこうした研究者の発見は、実にありがたいものである。




Takapan
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