本

『日本語の哲学へ』

ホンとの本

『日本語の哲学へ』
長谷川三千子
ちくま新書866
\819
2010.9.

 偏見をもつのはよろしくないが、女性で哲学者を名のるという方は、世界的にも少数派に属するように見られている。まして日本では、従来稀としか言えなかった。最近は、学生から積極的な発言がなされていくように、影響を与えることも少なくないようだ。
 が、それにしても、この著者は、もはや女性だの何だのということと関係なく、鋭い追究をなしていく。また、自分で事柄をかみしめるかのように、基本的なところからきっちり囲いをつくっていく姿勢は、読む方としては大変ありがたいと思った。というのは、えてして哲学的議論は、語っている当人は当然のものとして言葉を用いつつ勝手にどんどん論を進めていくのだが、読者としては、違う前提に立っているわけで、同じ言葉でも実は違う外延を想定している場合が少なくない。定義がきちんとなされていないと、どんどん別の噛み合わないままに著者と読者とが同じ言葉を差しはさんで別々の方向を見ているという事態が平気で起こるのである。それを防ぐべく、用いる言葉の定義や概念理解からていねいに始めてもらうと、実は読むほうとしては大変読みやすいということになるのだ。
 しかし、そこへいくまでにこの著者は、さらに準備段階をつくっている。そもそも日本語で哲学するというのはどういうことか、ということである。それがこの本のテーマであるのだが、おそらく中で扱われているいくつかの語についての検討を経験した上で初めて、そのことが共通理解できていくであろうと思われるものを、いきなり中心部分をはっきり提示しようとするからである。この本は、和辻哲郎の問いを延長している。和辻倫理という言い方で日本の思想界をリードした一人であるが、たんに道徳を論じたわけではなく、哲学の根本問題をそこに宿していた。実によい気づきがそこにあったという点をはっきり著者は取り上げる。日本語による哲学は、違うのだという事実である。
 なぜ違うのか。それは、デカルトを取り上げればはっきり分かる。西洋近代哲学の原理となった「われ思うゆえにわれあり」が、日本語としては存立できないというのである。いや、日本語であればその罠から逃れることは容易ですらあるのに、西洋人は、その言語的な制約の故に、近代主義の制約性に気づくことがなく時間が過ぎていってしまった、というのである。どういうことかというと、「われ」というあり方、さらに根源的な部分でいえば、「ある」の概念である。コプラ(繋辞)としてと、存在としてとの使用法の中で、ハイデッガーが見事に分離したかのように見えた、あの存在と存在者の溝というものが、日本語では元来別の語でつねにすでに分離されているのが当然としてあった、という鮮やかな指摘である。
 これを読者に伝えるために、存在概念の歴史を、パルメニデスの厳密性から、どこかルーズな、だがその流動性のゆえに展開を可能にしたヘーゲル哲学が取り上げられる。そしてハイデッガーであり、ハイデッガーに影響を受けた和辻哲郎という取り上げ方である。これだけの準備をするのに本の半分以上を用いる必要があったのはある意味で残念だが、それでもそれは必要な準備であったと言えるだろう。ついに、最後に日本語の哲学として「もの」なる言葉、そして最大の難敵であろう「こと」なる言葉が分析されていく。もはや日本語においては「ある」のほうが明晰なのである。それよりも、日常語の中で、つまり日本語として思索していくときに知らず識らず前提的に用いてしまい分析の嵐をすり抜けてしまっていたもの、つまり西洋哲学において存在が果たしていた根底的役割を、日本語においては、「もの」と「こと」が果たしているというのである。それについては、従来も分かったようなことを説明している人は幾人もいるのだが、それは十分な哲学的手法に基づいておらず、根拠付けがなされていないとして、著者が挑んでいくことになる。
 日本語で普通に分かり切っているものとして使われている「もの」と「こと」であるからこそ、扱いにくい。まさに、その通りである。この構造がはっきりしただけでも、本のタイトルが十分に必要であること、また途上であること、それよりもまた、問いとして有効であることが、示されたことになるかもしれない。
 女性である著者は、ものごとの基本的な理解において、妙なプライドをもつこともなく、素人感覚で、平然と多くの人に相談をもちかけ、質問に走っているようだ。「こと」という言葉はこんなふうに使いませんか、などと持ちかけられて、大御所は苦笑いしたかもしれない。そんなこと、当たり前じゃないか、と。だが、著者の追究を本当にかわせるような返答となりえたかどうか、それは今後の研究の成果が定かにすることであろう。
 ともかく大いに刺激を受ける。言葉が思索を決定する場合がある。思想が先にあるのでもない。たんに、風土で決められるものでもない。風土はしかし、言葉を決めることにより、その言葉による思考という意味で、思想に決定力をもっていくことはあるだろう。人は言葉によってでしか思考できない。しかるに、別の言葉で同じ哲学が同じように展開していくというはずがない。日本語の哲学の始まりが、このような形で始められるとすれば、大いに歓迎することではあるまいか。




Takapan
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