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『物語論』

ホンとの本

『物語論』
藤井貞和
講談社学術文庫2723
\1150+
2022.6.

 私にとり、「物語」というのは、人の心を考えるための、ひとつの大きなテーマである。ひとは何故物語るか。基本的には、文学者の「気づき」をいろいろお聞きしたい。だが、文学者はいわば物語の生産者なのであって、自分のしていることを、体験では語れるが、秩序だって語ることができるかどうかは、また別問題である。小川洋子さんのように、興味深い見方を教えてくれる人もいるし、平野啓一郎さんのように、冷静に分析して告げてくれる人もいるが、私たちはほかに文学研究者というものにも、期待すべきところをもっているはずだ。
 東大講義として名高い、藤井貞和教授の物語論が、コンパクトな講談社学術文庫になったというので、ぜひ教えを受けたいと願い、購入した。それは、日本文学における物語論が中心であった。もちろん、源氏物語の権威としての教授の名講義であるから、源氏物語を軸としているのはありがたいが、必ずしもそれに終始しないところが、フィールドの広さと深さとを感じさせてくれた。
 全部で18講ある。最後には構造主義を話題とし、フーコーを核として、幾人もの文学作品を具体的に用いるようなこともするが、その第18講ですら、他の講義と同様に、タイトルの次に、源氏物語の一節を引いている。
 私たちは人称として、一人称・二人称・三人称を区別する。英語などの外国語も、それらの表で整理した。だが、文学の語りというのは、単純にそのように割り切れるようなものではない。「まとめ」は「おわりに」に簡潔に記されているので、それを大いに参考にしたらよいとは思うが、「四人称」というものが、言語学においては常識なのだそうだ。但し、藤井教授の捉え方のほかにも考え方はあるらしい。ここでは、アイヌ語にそれがあるといい、登場する三人称が自身のことを物語るという場合に、適用するのだそうだ。だからこの人称は、作品の中で誰かが物語る場面においてこそ、意味をなす。
 そうした構造を背景として、さらに「ゼロ人称」も心得ておく。語りに現れた一人称があったとしても、それを語る語り手その人の人称はただの一人称ではない。ひとつ引いて、ゼロ人称だとするのである。その語り手というところからさらに、作者がちょろりと登場するようなその人称を「無人称」だと名づけて居る。このあたりは、藤井教授の功績らしい。
 私も、これらの言われていることを消化できたわけではない。どうぞ関心をもたれたら、本書を味わって戴きたい。これらの人称の文法は、繰り返すが、物語というもの中に登場する。生活場面での人称ではない。確かに、物語の中に、「狂言回し」のような存在が出てくることがある。読者や観客に、物語の説明をするために登場する者である。狂言によくあることから、このように言われるらしいが、手塚治虫もマンガの中で、この効果を盛んに取り入れていたように記憶する。そこへまた、手塚自身がマンガの中に登場するといった芸当も見せてくれるのだから、いったい手塚治虫の作品は、どういう人称で説明するとよいのだろうか。藤井先生に質問してみたい気がする。
 そう言えば、アニメでも映画でも、やたら事情通な奴がいて、それはこういうことです、と適切な解説をする者が必ず出てくる。それが間違いなどではなく、実に的確に真実を教えてくれるのだから、鑑賞するほうはそれを情報として取り入れ、安心できるのであるが、実際ドラマの場面では、そんなふうに都合良く事情を把握して正しく説明できる奴がいるのかよ、と茶々を入れてみたくなるようなことが、よくある。
 本書は人称問題ばかりではない。第15講の「テクストづくりと現代語訳」は、さらなる事態に展開できそうだと思った。テクストはどのようにつくられるか。そう、古典文には句読点などない。しかし校閲を経て、古典文章は私たちの目の前に現れる。写本をどのように読者に届けるか、そのテクストづくりは、まさに聖書でも事情は同じなのである。訳にしても、現代語訳にするというのが、提供する訳文としては相応しいはずなのだが、直訳では意味が通じない場合がある。かといって、意訳すると、原文を感じさせることができなくなることもある。文学者による、独特の味のある現代語訳もあって、味わい深いものだが、それだと原典へのアプローチを拒んでしまうかもしれない。聖書もまさにそうではないか。原典から直接日本語に置き換えても、文化の異なる土壌ではさっぱり理解できないだろう。藁葺きを瓦と訳したことが、日本の読者を裏切ったことにはならないであろう。決定訳は必要であるが、しかし原典から外れるかもしれない懸念がある。聖書は命のことばだと見なして、大きな組織は日本語訳をつくる。そのとき、命のエッセンスを伝える言葉を使い損なうことは、最も恐れるところであるだろう。そこで近年は、他の写本の訳や、同じ語を別に訳せるといった例を、欄外に載せる聖書が増えてきた。新改訳聖書が実行していたその方法を、つうに日本聖書協会も取り入れたのだ。研究のための訳であると共に、一般の信徒も、大いに助かるものだと私は思っている。
 では、聖書は物語なのか。そう、私の関心はそこである。いまのところ、物語であってもよいと十分考える。但し、ただの空想や、ファンタジーの物語ではないことは確かだ。それでは史実なのか。史実でないようなことも書いてあると分かってきた、との指摘があるだろう。そう、だからそれは「物語」なのだ。ただ、どのような物語であるのか、その物語にはどのような特徴があるのか。そうした点を、もう少し言語化できるようにしたい、と密かに考えている。他の、いくつかの重要な概念と組み合わせて、考えてみたい。
 そのためにも、本書は、またきっとよい手がかりを与えてくれるのではないか、と期待している。




Takapan
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