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『現代人は愛しうるか 黙示録論』

ホンとの本

『現代人は愛しうるか 黙示録論』
D.H.ロレンス
福田恆存訳
中公文庫
\380
1985.5.

 文庫版の訳者あとがきによると、現代は聖書の『黙示録』である。他の訳者によると、「黙示録論」となっているものもある。それどころか、本書と同じ福田恆存訳を新たな装いで、2004年に『黙示録論』をメインに立てて「ちくま学芸文庫」が発行している。そて「現代人は愛しうるか」を小さくサブタイトル扱いにしている。
 最初に訳したのは1941年だそうだ。そもそもロレンスによる原版にいろいろ曰くがあるそうで、かなり異なった版に基づくものを改めて訳したらしい。
 ロレンス自身、45歳という若さで世を去っているが、その詩の病床で執筆されたものらしい。人間が死を見つめながら、黙示録を論じたということそのものに意味があるような気がするが、ロレンスはこれにいわば噛みつき続けたことになる。確かにロレンス自身は愛という問題を見つめていたのは確かだが、20世紀になったばかりという頃に、あれだけ大胆な描写を示し、人生を送ったということは、ずいぶんと勇気の要ることだっただろうと思う。ずいぶんな「迫害」にも遭っていた。否、私たち良識ある市民が、彼を迫害していたのだ。
 本書はまず「ロレンスの黙示録論について」という、訳者による長い序文が掲げられている。黙示録というものはそもそも何なにかというあたりから、読者には提示しなければならないという事情の故である。だが、ここには実に詳しい聖書についての解説がある、と思っていい。そもそも聖書に何も知らずして、本書が味わえるはずがない。訳者としては、予備知識を提供する必要があった、とも言える。
 それにしても、れは聖書の説明としても一流である。福田恆存氏がそうした信仰をもっていたのかどうか、私は知らない。だが、実に恐ろしいほどに、聖書についてご存じである。そればかりか、巻末の訳注もものすごい。本編の半分の分量が訳注である。そこには、本文で触れられた聖書の言葉の出典やその意味はもちろんのこと、それに対してロレンスがどのように捉えたか、などを含めて、存分に解説がなされている。もちろん、それは聖書だけではない。ギリシア文明についてもロレンスはふんだんに触れているから、それについてもの逐一訳注を入れている。聖書以降のキリスト教の歴史、とくにイギリスに関する事情や20世紀初めの情況までも、これでもか、というほとに押してくる。
 これはもう百科事典を思わせるほどの迫力である。確かに、福田恆存といえば、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒業であり、卒論は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」であった。驚くべき知識があることは間違いないが、それにしても、この訳注だけでも、読者は大した知識を学ぶことができる、見事なものである。
 当時の聖書学の最先端をもロレンスは当然手に入れている。19世紀から20世紀にかけてといえば、いわゆる自由主義神学が席巻しようかという怒濤の時代でもあって、ロレンスにとっては良い風向きであったのだろう。黙示録の成立にまつわる、従来の素朴な信仰についての矛盾を叩き、徹底的にその幻想的な描写を批判する。揶揄すら入るのは文学者として当然のことだろうが、いま純朴なキリスト教信者が読んでも相当ダメージを受けそうな表現が連続する。それをものともしないキリスト者でしか読めそうにない。だが、もし読めるならば、これがなかなか味わいがある。ロレンスが正しいことを言っているかどうかは別として、このようにエルレギー溢れる接し方も、確かにあると思えるのである。
 黙示録にある表現が、他の文明のものを借りているようなところすらあり、それをユダヤのものとして信じている者がいたらお門違いだと吠えるくらいは、どうということのないレベルであろう。本書は黙示録に出てくる幻視を丁寧に辿っており、それを吐き捨てるような口調が続くものの、これは黙示録を深く読みたい読者にとっては、アンチ的ではあるものの、なかなかの資料であり、解釈である、とも言えるのだ。利用することは大いに可能なのである。
 プラトン哲学もギリシア思想も巻き込んでの壮大な理解であり、キリスト教の全歴史をも視野に置く、大した教養文庫であることは間違いない。その中で、ロレンスの怨念とも言える叫びというものを聞いて差し上げることも、読者としての礼儀ではあるだろう。人間が個人を強調し、その個人が常に「自分」でしかないようなあり方の中で、自分本位の理念を実現するためだけに、信仰をも愛をも利用して自己正当化を行い続ける限り、誰ももう愛するなどということはできないだろう。キリスト教という隠れ蓑を用いて、さらにまたそこから自分の正しさや自分の愛なるものを主張するだけで、互いに対立するばかりであるならば、民主主義とらやも、本当の愛というものを破壊するためだけにあることになるだろう。黙示録が、もしそのことを明らかにしようとしているものとして読むのならば、役立つかもしれない。人々が互いに「生きる」ことに基づいてつながることはできないのか。ロレンス自身はもはやその実現を目にすることは諦めていたにしても、これだけ命を削り書き遺しているのだから、これを読んだ諸君は、そうやって「生きる」ことのできる社会を生むように、「愛して」くれないだろうか。私はそんなロレンスの叫びを聞いたような気がする。そして、その願いをちっとも実現できないどころか、却って逆行しているだけのような、この百年間と、いまの私たちの姿を、見せつけられる思いがするばかりであった。




Takapan
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