本

『マルコ福音書のイエス』

ホンとの本

『マルコ福音書のイエス』
ピエール・ムルロン・ベールネール
伊藤慶枝訳
原書房
\1890
2007.7

 これは買った。ぜひ、と思って。そして、目から鱗が落ちるような思いがした。
 福音書をつないで、イエスの物語を作ることが、如何に聖書を読むということから遠いことか、知らされた。
 マルコの福音書というと、どちらかと言うと、簡潔で地味で、霊的に私たちを奮い立たせるような勢いがないかのように見られる傾向がある。淡々と、「すぐに」という言葉を多用しながら、どんどんストーリーを流していくので、ただ他の福音書の下敷きに用いられた程度のものか、などと見る向きすらあるようだ。
 けれども、違った。世界で初めて福音書という形式の文学を生み出したマルコは、そこにたいそうな計算と意図とを盛り込んで、実に周到な計画のもとに、イエスと読者とを出会わせようとしていることが、だんだん見えてきた。
 実は、マルコ伝については、私は今個人的な講解を準備していて、綿密な読み方を始めていたところであった。若干のガイドと共に、自分が受け取る神からのメッセージとして、マルコを描いていこうとしていた。そこへ見つけたこの本です。飛びついた。すると、目が開かれた。
 思うことは、どうしてこんな簡単な神のメッセージに、今まで気づこうともしなかったのか、という驚きである。聖書は実に奥が深いものである。また、いつかさらに、聖書の意味に気づかされることが起こることだろう。この本がゴールだとは思えず、この本が示したような出会いとともに、まだ足りないと一生求め続け、しかも、今このときに救いが完成しているという「時」に満ち足りた思いも抱くという、半ば矛盾したような感覚が、ここに成立するのだった。
 誰かが成立させた神学に基づいて聖書を読むのでもない。読む自分のイメージを膨らませそれを第一として聖書を読むのでもない。聖書はあくまでも聖書。そこから何が語られているのか、何を伝えようとしているのか、それを自分の人生を懸けて引き受けるというのが、人間のとりうる唯一の読み方ではなかったのだろうか。そう改めて思わされた。
 私もまだひよっこに過ぎない。




Takapan
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