本

『みずうみ シュトルム ショートセレクション』

ホンとの本

『みずうみ シュトルム ショートセレクション』
テオドール・シュトルム
酒寄進一訳・ヨシタケシンスケ絵
理論社
\1300+
2019.11.

 ヨシタケシンスケの絵ですっかり有名になったであろう、世界ショートセレクションは全部で12巻ある。その中で私が唯一、知らなかった作家が、罪滅ぼしこのシュトルムである。19世紀の人だという。北ドイツでは有るが、当時はデンマーク領となっていたそうだ。法律家であったが、文学作品を発表し、非常に写実的な描き方をすることで知られているのだという。
 シュトルムが生まれたのは1817年だというから、イギリスの力が世界に轟いていたことだろう。デンマーク領だと先に言ったが、まだ当初ドイツという統一国家が成立していなかった時期だ。自由主義への革命が続く中、ドイツもようやく国家の形をとる。シュトルムが没する17年前のことである。
 予備知識がなかったため、とても新鮮に作品を味わうことができた。そう、この自然描写の美しさはなんなのだろうか。イギリスのナショナルトラスト運動の源流となったような、ビアトリクス・ポターが生まれたのが1866年であり、ピーターラビットの作品が生まれた景色がいまもなおその努力により遺されている。だから、シュトルムが描いた風景は、それより半世紀昔なのである。
 物語そのものは、会話ばかりで進んで行くようにも見える。それなのに、会話の狭間にちらりと見え隠れする描写が秀逸なのである。それは、ただ自然のものを描写している、というだけのことではない。人物描写や、室内の物品の描写も含んでそうだと私は言っている。退屈なまでに花や草や動物のことを書いているのではないのだ。
 どうしてだろう。物語の進展に乗って流れていく中で、私は考えていた。すると、思いついたことがあった。人間と自然とが、よそよそしくない、ということのように思えたのだ。わざとらしく、さあ自然だ、と示すようなものではなくて、人の生活や人の生き方が、自然とつながっているように見えるのである。そこにある草木は、人が生きるその一部。人の生き方は、自然の一部。対立するようなことがなく、同じひとつのもののつながりの中で、そこにあるべくしてある、といったもののように感じられる。それをシュトルムは、そのつながりのままに、文字にしてくれた。その文字が、私たち読者の想像力を刺激して、自然と人との一体化する理想がある世界へ、と導いてくれているのだ。
 このシリーズは「ショートセレクション」であるが、本巻は、200頁余りの中に、四つの物語しか入っていない。シリーズの他の本より明らかに話の数が少ない。つまりひとつの物語が比較的長いということだ。三つ目の「リンゴが熟したとき」という、登場人物も場面となった場所や時間も実に短い作品が、10頁と短いため、ほかのものは50頁くらいはあり、最後の「人形使いのポーレ」ひとつが100頁近くある中編となっている。
 最初の「みずうみ」では、ある老人が昔のことを思い出す心情のままに、切ない心が流れていく。終わりがけの民謡の言葉が、なんと残酷に心を刺すのだろうか。どうして、一歩踏み出さなかったのだろう、どうして、時間という重みを放り出していたのだろう、と苦しい思いになる。その時代の社会や考え方に基づいている常識のようなものがあるのかもしれないが、だとしても、いまの私たちの心にも、少しきゅっとくるようなものが、そこにある。
 次の「雨の精トルーデ」は、先ほどのとは逆に、ファンタジーがハッピーエンドへと連れて行く。爽やかに読めるが、ちょっとしたアドベンチャーがまた楽しい。最後の長い「人形使いのポーレ」は、旅芸人の娘との物語へと流れていくが、ぼくが人形芝居に夢中になる様が鮮やかに描かれている。旅芸人というものが、当時はあったのだ。物語には、過ちと赦しという問題も含まれている。ちょっとしたハラハラ感をも懐かせた後、12年という時間を超えて、偶然とはいえ、よかったねぇと肩を叩いてやりたくなるような結末へ向かう。
 なお、シュトルムという名は、「疾風怒濤」と訳されるドイツ語の「シュトゥルム・ウント・ドラング」とは、少し綴りが違うので、念のため。




Takapan
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