本

『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』

ホンとの本

『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
目黒安子
教文館
\1890
2012.4.

 著者は、タマシン・アレンの創設した学校の閉校にあたる最後の責任者。どうしてもこの生涯を伝えたいという熱い思いが伝わってくる。しかし、それは伝記ではないように私には見える。ここには、伝記にするには脚色が抜けている。そのときアレンがどんな気持ちであったなどということが、説明されていないことが多い。もし、劇的なドラマを読者が期待すると、がっかりするかもしれない。だが、そういう脚色に飛んだ伝記というのは、えてして、伝記作者の手による演出である。そこへいくとこの本は、アレン自身の書簡や記録、それから周辺の人の書き残した資料が多用されており、その内容や事情をつなぐために事実の説明をすることに著者が専念していると言える。つまり、これは第一級の史料となるのだ。
 タマシンという名前は、その父親のトーマスの綴りに女性的な語尾をつけたものである。一家は、信仰に厚く、タマシンは、やがてバプテスト教会の宣教師として世界に出ることになる。当時、女性はアメリカにおいても社会的に低い地位であり、こうした役割で女性が用いられる教派は限られていた。そのうえ、牧師としてもやや制限のある立場ではあったようだ。しかし、日本に派遣されて、タマシンはその教育と経営の手腕を発揮する。最初東京にいたが、仙台に移り、東北に魅力を覚えていく。第二次大戦前の時期である。日本では明治期以降キリスト教はそれなりに広まっていたのだが、都市部に限定されていた観がある。タマシンは、僻地への伝道を望んだ。歴史上有名な多くの人との交流や支援を経て、ついに行き着いたのが、岩手県久慈であった。当時岩手などは「日本のチベット」と呼ばれ、教育環境は日本で最低だと言われていた。そこへ教育を開く、しかもミッション系である。
 ところが、と言ってよいのかどうか知らないが、大いに受け容れられていく。それは、宗教的に高いところから教えるようなところが少しもなく、地元の人を助ける働きを献身的に続けていく生き方が貫かれ、それが人々にも伝わっていったからである。農業を助けるはたらきも行っている。幼稚園をつくり、教会学校には200人も近隣の山村からもやってきたというのだから、もはや現代の私たちは太刀打ちできない姿である。現地での功労者として讃えられ、晩年には勲四等瑞宝章も受けている。
 1993年の三陸大津波のとき、現地を駆け巡っている。大戦時には収容所生活を強いられ、アメリカへ帰還させられるが、再び来日し、1960年チリ地震の津波で再び岩手海岸で支援をしてまわる。1976年に召されるが、もし今存命であれば、東日本大震災の各地で支援の手を伸ばしていたことだろう。
 様々なエピソードが伝えられる。記録に支えられている本であるから、派手さはないが、必要十分な解説が施され、実に読みやすい本となっている。アメリカに戻った折には、アメリカ各地で講演し、そのことで日本を理解してもらうのに役立っている。とくに戦争時、アメリカでは反日感情が強かったけれども、そこで日本のことを紹介する勇気ある行動により、後にも日本のこの東北の地でのはたらきへの寄附を多く獲得している。とにかくそのコミュニケーション能力の高さが評価されており、たくさんの手紙を書くことで、アメリカの団体から日本のための多くの献金をもたらすことに成功している。とても不可能な、幼稚園や学校の設立も、ヴォーリズをはじめ幾多の人の協力により実現している。経営も成り立つような状況ではないわけなのだが、これも寄附で賄っている。すべては本当に奇蹟的であるように見える。
 私も、この本のことを聞くまでは知らなかった。おそらく、一般的にもあまり知られていない人ではないかと思う。しかし、その教育観も含めて、私たちはこの遺志を継いでいく必要があるのではないだろうか。タマシン・アレンは、教育や酪農に確かに実績を遺した。医療活動でもそうである。そして、それはすべて信仰に貫かれており、伝道の基本を蔑ろにするようなことは一度もなかった。それでいて、それは押しつけがましいものではなく、愛に満ちたものであった。
 もっと読まれてほしい。そして、自分自身の生き方や、教会のあり方なども、問い直して戴けたらと願う。もちろん、私自身もそうである。




Takapan
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