本

『未来形の読書術』

ホンとの本

『未来形の読書術』
石原千秋
ちくまプリマー新書062
\720+
2007.7.

 受験生のための国語読解の本などで出会っていた著者だが、今回は受験という目的に特化したものではない。読書一般である。本を読むということについて、その意義を問うていく。活字中毒の私にはもってこいの話題だ。
 本とは何か。読書とはどういう営みか。そこには、言葉というものへの問いがまず必要になる。だがそのとき、読む自分がどこにいるのか、という問いが最も重要な問いとなる。読んでいるときには、私という存在は消えているかもしれない。そんなふうに言うと、哲学者か神秘主義者かのようにも聞こえようが、自己認識の不可能であることは、とっくに誰もが気づいている。しかし読書が、これまで知らなかったことを教えてくれ、これまで知らなかったところへ連れて行ってくれるのだとすれば、自分が言葉でこれまで述べ、認識できた世界とは別のところに行くことになり、自分の言葉の領域、自分の知る世界の外に立つことになるだろう。私がこれまで「世界」と呼んでいたものではないが故に、私は読書経験においてその世界の中にはいないということになるというのだ。
 この不在の自分を問い探すことが真の意味での「自分探し」なのであるから、安易に本当に自分を見つけたいなどという、まやかしの「自分探し」とは訳が違う。読書がもたらす冒険は、甚だダイナミックなものなのだ。
 著者は、具体的に「小説」とは何かを語り、小説の読み方を提示する。そこにある自由は、定まった解釈を決めるためのものでは断じてないという。
 ここで、イーザーという文学理論家の名づけた「内包された読者」という概念を紹介する。それはテクストの内部で仕事をする読者のことである。現実には存在しないその読者は、小説の中のことを皆知っている。その小説を語っている人物であるが、時にそれは小説の中で活躍する一人称の「私」にもなる。これは同一人物でありながら、どこか位相が違う。小説を語っているその「内包された読者」の立場に立ってこそ、文章を読むことになるはずである。このからくりを、上手な読者はもう無意識のうちに心得て実践している。
 しかし、その読み方は一様であるわけではない。自分の読み方を絶えず否定され、修正しながら読むのでなければならない。本を読み終わったときに「新しい自分」に生まれ変わっている、そういう読書が理想なのだそうだ。
 このことは、聖書を読むという行為にも適用できるのではないか。聖書を読み、新しい自分になることは、確かな常識である。信じる者はすべてこれをやっている。しかも、その文章の中から、神との出会いを体験する。神と出会うことで初めて、信じるということが成立するのである。
 ともかく、小説を、こういう意味なのです、と画一的に解釈することはできない。ところが最後に挙げられる評論においては、勝手な解釈はそれを正しく読めなかったことになる。それでも、評論にも「内包された読者」の位置があるのだ、というから驚く。それは、論者がそれを超えていくための、いわば常識論である。しかしそれを超えるからこそ、その評論に読む価値が生じる。しかし、この常識というものは、時代により変化する。かつての常識は、いまは非常識ということもある。逆説めいて当初は面白がったとしても、それは次第に陳腐になっていく。世界を理解するパラダイムは、変化していくものなのだ。だから評論は、小説ほど長きにわたり読まれるものではなくなってしまう運命をもっている。
 こんなふうに書いてみると、本書のネタバレをしたような気がして気が引ける。だが、宣伝もしておこう。巻末に、読書案内がある。本書の次に開いてみたらよさそうな、おいしそうな本が並んでいる。これは一見の価値がある。
 どうしても聖書に引きつけて、あるいは聖書を読む行為と重ねて私は考えてしまうのであるが、それはそれでよいのだろうと思う。自分の立ち位置が意識されていて、そこから見える風景を、本を書いた人から教わりつつ、案内されつつ、愉しんでいけばよいのだから、神からのメッセージとしての聖書を、精一杯読み、自分がそこの世界に立っているという経験をすることになるのだろうと思う。
 やはり、本はいい。




Takapan
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