本

『未来をつくる言葉』

ホンとの本

『未来をつくる言葉』
ドミニク・チェン
新潮文庫
\550+
1992.9.

 いろいろ国際的な活躍をしている方のようで、母親が日本人であり、父親がフランスに帰化したアジア人であるもとで、フランスの教育を受けて育った人であるらしい。文化構想学部の教授を務め、テクノロジーと人間、自然存在の関係性を研究している、というようなプロフィールがあった。また、文庫版あとがきによると、ある賞を受け、大学入試の問題文に選ばれたり、高校国語の教科書に掲載されたりしたらしい。
 確かに文章が巧い。非常にレベルの高い内容であるのだが、平易な言葉でそれを語り、伝えている。これは簡単なことではない。
 そして渡邉康太郎氏の解説に記されているが、「はじまりとおわりの時」という冒頭の宣言が、本書の中で核となりベースとなり、貫かれていることを胸に読んでゆくと、著者のいる風景が見えてくるかもしれない。何かが完了する。ひとつの「おわり」が成る。だがそれは、そこで終了するのではなく、それをまた「はじめ」として、次の営みが生まれる。そこに「新しい言葉」を感じてゆくことになる。
 それは、自分に娘が産まれたときの不思議な感覚に由来している、ともいう。自分の中から言葉が一時喪われたのである。そしてそのとき、「いつかおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じられた」というのである。
 著者は、哲学とデザインを学び、美術館で仕事をしながらインターネット上の文化を促進するNPOに参加し、情報技術の会社を企業した。そこで「表現とは何か」という問いを軸に歩んできた。
 言語が身体化されること、翻訳の限界について、バグから自ら少々もつ吃音からの思考、時に哲学の味付けも加えながら、デザインや表現について、自身の経験にまつわるお喋りを続けてゆく。
 ベイトソンは20世紀前半の遺伝学者であるが、筆者はたいへん影響を受けたのだそうだ。こどもが何か文化的な達成を果たしたときになされるナヴェンの儀式、その祝祭が、「日常で信仰する男女間の分裂生成にブレーキをかけ、集団内の対立構造を中和する作用があると考えた」ベイトソンから、人間関係がうまくゆかない情況を打破する道を探す。人工知能や近年の言語観を踏まえながら、こどもたちの未来のために、命つながる言葉や道具を、そしてまた認識を作り出してゆく勇気を、著者は目指そうとする。
 サイバネティクスについても言及する。「もともと生命と機械の世界を架橋しようというビジョンを持っていた」ことをベースに、チューリングやノイマンの仕事の向こうに、知能を包含する「生命」というコンセプトも探究していたに違いない、と推測する。その眼差しは地球規模の課題へも向かう。
 それはまた、私たちが「共に生きる」ことについての歩みにもなってゆく。他者と多様性といった、よく聞くようになった言葉もさることながら、生命そのものは、基本的に非生産的な現象としてここまで続いてきたのであって、他者を排除することをこどもたちには聞かせたくないと言い、こどもたちが「開かれた未来」を十全に生きられるよう肯定し、助力すること以外に親としての選択肢はない、と宣言している。他者は私と別ではあるものの、「わたし」に「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくことを願うのだ。
 そこに「メタローグ」という概念を結びつける。それは、「深い関係を結ぶ相手の視点を自分のなかに住まわせて、そこから世界をも見ようとする営み」であるという。そこにも、親として子を見る眼差しというものからの思いが感じられる。果たして「コミュニケーション」とは、自他の境界を明確に区切ることを前提にする「対話」のことだ、という理解でよいのだろうか。著者は「重なり合い」がそこにあるべきではないか、と考えているのである。
 そこで「対話」に対して、「共話」という考え方を、著者は提言する。自分の考えをすべて論理的に明らかにして提示することによって進む対話ではなく、口に出さずとも理解し合える共話という、いかにも日本人らしいコミュニケーションの良さに注目するのである。著者はまた、「共在感覚」についても触れている。「相手と共に在る感覚」は、文化によってかなり異なる、というのである。
 この本に触れていたとき、番組「あさイチ」に、田中慶子さんという同時通訳者が登場していた。英語そのものの学びは、二十歳を過ぎて始まったようなものだったが、日本を代表する同時通訳者として活躍している。一度担当したゲストたちは、自分の言いたい心を汲み取って伝えてくれる、と感動しているという。そして通訳で心がけていることも、そのように、話者の伝えたいことを常に頭に置いて、それをなんとかして伝えようと、かなり多くの説明を施すというのである。
 これは正に、本書のモットーであったと私は感じた。日本人は、何とか心を伝えたい。だが、その人が日本語で表現した文字では、伝わらないのだ。英語を使う相手は、「対話」の姿勢である。日本人は、言葉足らずでも伝えようとする「共話」の言葉を口に出す。通訳者は、それをきちんと論理的な前提や言い方を駆使して、相手に心を説明するのである。
 そして「思い出す」という営みの中に、「現在のなかに過去の経験を挿し込み、現在にフィードバックさせる」ことを著者は捉える。その意味で、「過去は終わらないし、未来の在り方にも関わってくる」のだという。死者が生者のなかで生き続けるという感覚」もそれである。これもまた、娘の誕生に湧き起こった感覚であるのだろう。
 そこで、著者はまとめにかかる。「コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である」というのだ。そこには、「理性だけではなく身体にも訴える「言語」が必要となる」のである。そして、「文庫版あとがき」に於いて、「いつかわたしたちの言葉が交差するかもしれない未来を、悠々と待っています」と本書を結んでいる。




Takapan
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