本

『他人を見下す若者たち』

ホンとの本

『他人を見下す若者たち』
清水敏彦
講談社現代新書1827
\756
2006.2

 教育心理学の立場から、新しい分野を開拓しようという意気込みが窺える。
 この傍若無人な風景は、どうしてなのか、と心理学的に挑んだひとつの作品である。はたしてここにいう仮説が成功しているのかどうなのか、私には判断がつかない。だが、その現象はたくさんある、ということは、恐らく聞く耳をもった人は誰しもが指摘することだろう。世の中の、何かがおかしいということで、この著者の説に、一つの解決を見いだすことは、十分できるのである。
 それは、仮想的有能感と名付けられている。分かりにくい概念だが、それというのも、その説明に、時折、恣意的ともとれるような、説明抜きの了解が求められていることが一因であるかもしれない。もとより、こうした新書においてすべてを誤解なく伝えるというのが難しいのであって、読者の疑問が皆無になるような配慮を施すことは、無理なのであろう。
 お笑い芸人の下りなどは、私がかつて記したことと全く同じようなことを述べてあったのだが、これも、紙面の都合か、誤解を招く虞もあるのではないかと思った。そもそもお笑いというものが、芸人の謙譲の下に成立するのが基本であるだけに、今風のお笑いが、その場にいない人を蹴落とすようなやり方に走る点を、より強調すれば分かりやすかったのではないか、とも感じた。
 学問的にどうなのかは分からない。しかし、実に明快に述べてあるとも受け取れる。根拠なく、自分は偉くて他人をバカにすることは、大いに見て取れる現象だと思うし、ここから昨今の子どもたちについて説明できることは数多い。
 また、キリスト教的観点からも、重大な事実に遭遇する。自分に「罪」はないと言い張る、あるいは罪などないと思いこんでしまっていることが、個人的な事情でなく、この時代の中に流れる大きなもののなせるわざだということである。「人間には罪がある。あなたも自分の中にそれをお感じになるでしょう」などと教会では問うが、今はそれに対してけろりと答えるのだ。「感じない」と。
 著者は、社会という構造に、そこからの脱却を図っているように見受けられる。この「社会」なる語が何を包含するかについては、分かりにくい。もちろん、これだけのスペースでは伝えきれないのだろうが、自分に罪なしと思いこんでいる面々にとっては、自分たちだって、ケータイとかコンビニ前とかで仲間と社会をやっているんだ、とか何とか言い始めるわけだろうから、自覚なき患者に治療なしというわけで、私たちはともすれば、処置なし、という言葉を頭に思い浮かべることになるのである。
 ケータイをもったサル云々の本と併せて読むと、何かが見えてくるかもしれない。




Takapan
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