本

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』

ホンとの本

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』
マーク・R・マリンズ
高橋恵訳
トランスビュー
\3990
2005.5

 柄谷行人や養老孟司といった人の推薦の言葉が帯についているのが驚きである。キリスト教のことというよりも、日本社会の問題としてこの本の価値を印象づけ、販売につなげようとする試みであるかのようだ。皮肉なことに、その行為自体が、この本で捉えられている、日本においてキリスト教がどのように受容されているのかいないのかという問題を物語っているように思える。
 アメリカからカナダという地で研究を重ね、1985年からは日本の大学に籍を置いている著者である。いわば執拗に宗教教団を訪ね探る姿は、逆に見事だと言わざるをえない。通常これほどの資料を提供しないのではないかと思われるような、いくつかの教団から、十分な取材をすることができたのである。
 無教会の運動は、歴史的にもあまりにも有名である。そしてその運動が蒔いた種は小さくない。その主張や運動の仕方にヒントを得たのか、自らの感性あるいは霊性で聖書を読み解く人々がその後も生まれた。西洋主義の宣教師による教会開拓ではなく、日本という背景に合った形の福音理解と宣教とを案出して、それぞれに啓示を受けたという権威を伴って、いろいろなグループが発生した。それらは、西洋の宣教師がもたらしたやり方には不満であった。それでは日本人が福音を受け容れることはないだろう、と感じた。聖書の中に、日本人が懸念する点を解決する記述を探し、それを表にさえ出してきた。
 日本人の考え方や風土に合ったこと、これをこの本は「土着」と訳された中心概念を掲げて論じている。その土地に固有のこと、生まれつきの、といった言葉である。この「土着」が、この本の中心概念である。西洋宣教師たちが、すべて否定し尽くそうと乗り込んできた日本人に備わる考え方や捉え方が、聖書的にも大いに考慮すべき点でもあったのだということが、じきに明らかになる。
 こうした点を、日本人が指摘するのは、簡単なことではなかっただろう。たとえば私も、教会で追悼礼拝を行うのは、そういうものだと思いこんでいた。だが、これは著者によれば、いかにも日本風な配慮なのである。祖先崇拝を避けられず、また、福音を知らない祖先の救いは如何にという心情的な心配点について、解決を図ろうとする新たなキリスト教団体が生まれ、それらの活動を、多くの資料と共に紹介する。
 実は私が個人的に知る教団もここに扱われている。それだけに、その記述についてはよく分かるし、最近はどうなっているのかという点についても、明らかにされて興味深かった。
 キリスト教は、日本人にとりどうも体外のものという感覚が止まない。歴史的な不幸もあり、排除する心理が当然のこととして備わるようになった。しかし、そのキリスト教を、日本人の心情に合う形で盛り込んできたグループは、少なくともその教祖が存命の間は、著しい発展を見せることもあったというのだ。そういう経緯が、いくつかの教団について詳述される。これもまた、興味深い。
 日本人の死生観に限定して思索している章もあり、また、日本に福音を根付かせるにはどうすればよいのかを探究している章もある。
 特定のいくつかの教団の資料が多いせいかそこに詳しさが伴うのだけれども、日本で福音を伝えるというためにはどんな視点が必要であるのか、教えてくれるのは事実である。地味な本ではあるが、教会で指導的立場にある人には、大いに力となりうる一冊である。




Takapan
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