本

『見えないものに、耳をすます』

ホンとの本

『見えないものに、耳をすます』
大友良英・稲葉俊郎
KTC中央出版
\1600+
2017.9.

 長男が関心を持っている分野について、本を探そうとした、そんな関連の中で出会ったのが本書である。個人的には、大友良英さんには少しだけ馴染みがあった。やはりあの「あまちゃん」である。そして「いだてん」もその流れの中で受け容れたので、これらの音楽はとても心地よかった。他方、稲葉俊郎さんのことは寡聞にして知らなかったのだが、心臓の分野で著名な医師であるという。しかし、紹介のされ方からしても、ただの医師ではなく、非常に深い人間洞察が背景にあるということはすぐに察知できた。
 NHKの対談番組からできた本である。分野の異なる二人の対談から、話を深めていくという企画のようだが、確かに音楽と医学とでは、普通なら話が噛み合いそうにないから面白い展開が期待されるであろう。そうすると、本書には、番組原稿が収められているというイメージがある。もちろんそれもあるが、それはほんの半分に過ぎない。番組後、二人は再び話の続きを対話するのだ。さらに共通のアンケート形式で問うたことへの回答も最後に載せられていて、よいまとめになっている。
 本の紹介は以上である。ところが、これは内容が汲めども尽きぬ泉であることを、途中から私はもう感動の中で浴びまくっていた。もう、そうだよねと本に向かって叫びながら、夢中で黄色い線を引き続けてきた。こんな良い本にめぐりあって、幸せだと思った。そこでここから、半ば引用の羅列のように、私の心の琴線に触れた言葉を【 】の中にメモしていこうと思う。
 稲葉氏は、とても病弱であった。それが医師への道へと進むことになる大きなきっかけである。【「愛されているから僕は生きなきゃいけないんだ」っていう強烈な記憶があって。僕はその時「生きよう」と決めました。】
 大友氏は、東日本大震災のとき【この世界を作った責任者のひとりなんだと】気づく。【原発事故を見ていると、「僕にも責任がある」と思ったんです。】この感覚がいい。
 稲葉氏は、西洋医療だけがすべてではないと考えている。【どうしたらこの人はより良い人生が送れるのか、それにはどういうサポートができるのか、そういうことを真剣に考える】必要があるし、選択肢が増すと考える。すると大友氏は【自分の体を戦いの場という戦争のメタファーで捉えている限り、この世から戦争はえいえんになくならない】と言う。
 稲葉氏も芸術にたいへん関心が深い。だが、芸術を、食うための職業にすることは選ばなかった。【音楽とは芸術とか、その人の深いところから出てくものってやっぱりあって、体験なり敬虔が、得体の知れない影響を自分自身に与えて】いると考える。そして【出会いこそが、その人の個別性や独自性の基礎を形作っている】のだと言う。
 大友氏は音楽で被災者の地域を明るくすることを考える。【やっぱり音楽って居場所を作るとても大切なツールだと思うんです。「私はここにいていいんだ」って思えるような場を作るためにも音楽は必要】なのだ。その音楽について稲葉氏は【その人自体が一番その人らしい状態で、ウソがない素直な状態でないと、その人本来のものが出てこないと思うんです。それは音楽であれ何であれ。だから音楽的な作品というのはその人のあり方から結果的に出てくるものであって、その人自身の状態がまず大前提として゛大事なんじゃないかなと思います】と言う。
 医療のあり方については、稲葉氏が【分野を問わずいろんな人と対話していくこと】が大切で、そのためにも【自分の中のかすかな違和感を大切にしていたい】とし、【自分以外の人を暴力的に決めつけたりしないように尊重しながら、みんなが自分自身の感性を大切に】したいという意見を語る。
 これが放送された中での発言のいくつかなのだが、その二ヶ月後、二人はまた会って話の続きをする。
 ニュースなどにおいて、【観念的な死というか、頭の中に浮かんでくる「情報としての死」のほうがよっぽど怖い】のであり、【現代人の死生観にものすごく影響を与えている】と稲葉氏は案ずる。大友氏は【科学がわかりやすい答えを示してくれないものに関しては、恐怖が暴走しますよね】と反応し、これを私たちは新型コロナウイルスのときにまざまざと見た思いがした。二人とも、東日本大震災のときに現地でボランティア活動をしている。そこで、そのような風景を確かに見たのだ。その恐怖というものについて稲葉氏は、【戦争みたいなものと結びつくと、危ない】と言い、【人を動かす時、そうした人間の弱さを利用したいと思っている人がいるから成立してしまう】と本質的なところをちゃんと見破っており、【恐怖というのは根源的で、最初に学習される感情でもある】わけで、【医療をいろいろ見てきて気づいたのは、本物と偽物の違いは、その行為を愛からやっているか、恐れからやっているかだということ】だと、宗教でもなかなか言われないような大切なことを告げる。【多様性を隠れ蓑にして、ただ失礼な人になってしまっている】のがインターネットの危険性だと言うが、ここから「礼」とか「型」といったものの大切さに話題が移っていく。
 それは大友氏のバックボーンである音楽の話なのだが、ここでも稲葉氏が貴重な視点を提供する。【音楽を全身で感じた時に自分が変わってしようまうよな体験】を指摘し、現代音楽の衝撃などを大友氏に次々と語らせていくようになる。しかしそれは、いくら新しくても、古くからの「型」のもとにあるものなのだ。それは西洋と東洋の音楽のつながりにも目を開かせ、そのことは、西洋の医学が日本の医療を全部制覇してよいのかどうかも考えさせる。【待てなくなっている風潮】が、伝統医学を棄ててしまおうとしているのではないか、と危惧するのである。
 ラフな雰囲気があるせいか、話題は行きつ戻りつ進むのであるが、音楽の話が深まると、これまて何度も言ってきたようなことが繰り返される中で、大友氏が【この百年くらいで、録音という技術とともに、音楽の作られ方や演奏のされ方、聴き方そのものがすごく変わってしまったと思う】と述べるが、これは先般私が感動した『音楽の聴き方』で知った音楽の歴史の中の問題点とずばり一致するので驚いた。
 また、稲葉氏が【村上春樹さんって、比喩、メタファーが素晴らしいんですよ。どういう時に比喩を使っているのかという話が出た時に、読者の集中力が切れてくるタイミングで、読者をハッとさせるために意味の落差を出そうと比喩を使っているんだというようなことを言って】いたという興味深い話題を提供する。この思いがけない変化のような切り口から大友氏は、【音楽に限らず、非常事態の時に何をするかって結構その人の本質が問われると思うんです】と触れ、これまた私は驚く。これも、新型コロナウイルスのときに私がまざまざと見せつけられた真理であったからだ。
 このように、本書は私の考えにぐいぐいと迫るものが多く、私がすでに言っていることを含め、まだ私の内で形になっていないものを言葉の形にして表してくれていると思えることも多く、実に有意義な読書の時間を与えられた。毎日少しずつ読むというのがよかった。一気に読むと、その味わいが半減すると思われるからだ。
 大友氏は、障がいをもった子どもたちに楽器を与えて演奏するという、素晴らしい音楽教育にも携わっている。その点にも深い話が続くのだが、そこに一種のコミュニケーションが、特に非言語的なコミュニケーションがあると分析した稲葉氏が、【人って簡単に閉じるんですよ】と言う大友氏を受けて、非常に重い事実を告げる。言葉というものにぐっと引き寄せて言うのだが、【医療も体や心から発せられる「言葉」を扱っている】とし、【記号はある集団の中でしか通じない言語】なのだと指摘するのだ。【原発の時もそうですけど、一般の人にわかりやすい言葉で話すということが、科学をやっている人には難しくて伝わらなかった。記号化された専門用語で話して、相手に伝わっている気になってしまうんです。僕らも、患者さんに体の話をする時、なるべく記号じゃない話をしないといけないなと思って】いるのだという。なんのことはない。教会について私が常々懸念していることそのものではないか。教会で、あるいは説教またはメッセージで用いている言葉、もちろん聖書の用語もそうだが、記号化した用語で仲間内だけに通じる了解だけがそこにあり、独善的になっているふしがある。誰でも、その言葉を耳にする人の魂の話であるはずなのだ。原語は、専門用語ではなかったはずなのだ。救いの言葉だったはずなのだ。
 子どもたちと音楽をする大友氏が【学校に行くとまずはそれを崩したいなって思う】というのが、形の決まっている授業の姿。稲葉氏がこれを受けて【一神教的な世界というか、ひとりのトップがいると、ヒエラルキーのようにな。構造自体をそもそも買えないと、どんなに自由な話をしていても、フォーメーションが自由じゃない】と言うが、これも教会の実に痛いところではないだろうか。大友氏が【変えるのは大変で】と言うのも尤もなことであるのだが。
 稲葉氏が言うに、【頭と体のバランスをいかに調整していくか】が大切で、【頭での理解と体の素直な状態のねじれをもとに戻してあげて、頭と体の風通しを良くすることで、いい関係性を作ることができるんです。体は非言語の世界なんですけど、言語を入り口として時間をかけて自分の体と対話する】のだからです。音楽も、言語にならない芸術だと思われますが、言語性の観点を見失ってはいけないことを、『音楽の聴き方』から学んだのを思い起こしました。このことを踏まえると、違う言語の人とどうつながるか、それは音楽の世界でもそう。また、身近な職場でも、そもそも他人と一緒に仕事をしていくとなると、違う言語の人と協同することなのである。一般性のある法則や内実を語ると、どんな立場や状況から聞いても、その話に頷くことができる。本書の醍醐味の一つだろうと思う。
 そこから、話の通じない相手を排除の論理に気づいていくように話は進むのだが、相模原の障がい者施設の殺傷事件に大友氏が触れると、稲葉氏が排除する社会はしばしばお金のことしか関心を寄せないかもしれなが、【弱者を排除せず受け入れられる社会というのは、誰かが声を掛けて手伝ったり、誰かが手を差し伸べさえすればいいことなんてす。システム化しなくたって気づいた人がなればいい】と言い、社会をどう作るかということにいて、【人間感や生命感そのものが問われている】と、極めて重要な指摘をしている。  大友氏はこの後、再び、音楽を所有するようになってしまった時代に警告を与える。音楽は所有するものだろうか。【でもそれは音楽の一部でしかない】のだ。
 こうして【医療や音楽の垣根を越えた対話が、何かいい方向へつながっていく小さな一歩になればいい】と稲葉氏が言い、対談は結ばれる。
 本は、この後互いに相手に10の質問をしてそれぞれ答えた結果が明かされて結ばれる。互いの個性が色濃く出ていて興味深いが、それを辿ることはここでは控えよう。対談と聞くと、その場限りの当たり障りのない話で社交辞令で終わるのではないかとか、逆に互いに反発し合って終わるのもあるぜとか、そんなベタな成り行きを想像してしまいがちだが、非常に深いものを互いに引き出しながら共鳴する、しかも異業種間でこそのその共演という意味で、有意義な、というよりも実に示唆的で傾聴すべき、感動的な対談であったと私は受け止めた。孤独な思索からは生まれないもの、1+1が3になる瞬間を見せつけられたような本だった。長男の問いかけがなかったら、巡り逢えなかっただろうと思うと、これもまた、出会いなのだったと喜びたいところである。




Takapan
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