本

『中動態の世界 意志と責任の考古学』

ホンとの本

『中動態の世界 意志と責任の考古学』
國分功一郎
医学書院
\2000+
2017.4.

 面白かった。最近読んだ中でも最もわくわくした本である。
 因みに、最新の流行語までネット利用の語をすぐさま漢字変換してくれるGoogle日本語入力でも、「ちゅうどうたい」は変換してくれなかった。ギリシア語やサンスクリット語を学んだことがない方には、「なんじゃそれ」という世界かもしれないが、新約聖書を原典で見てみようとすると、この中動態(中態という本も)というものに出くわす。
 中動相(中動態)という語を用いている本では「主語の好意が何らかの形で主語自身に再帰することを、再帰代名詞を使わずに、動詞の人称語尾だけで表すものである」(大貫隆)と定義しているものがある。この後3つの種類の用例が挙げられているから、これはまだ詳しく扱っている部類に入るであろう。しかし、これで分かったような分からないような、複雑な感情を抱くのは、きっと学生皆ではないかと思う。
 中動態とは、能動態と受動態に比較される第三の態である。この中動態に、真っ向から挑み、註とあとがきを含めて335頁を費やして説いてくれたのがこの本である。古代語の後に消えたこの中動態とは何か、それを謎解きのように私たちの前に見せてくれたと思う。
 「する」の反対は「される」であり、物事にはこの2つの態 (voice) がある、と英語で教わった。そして英語では oneself を付けて「自分自身」を目的語にとることを、態とは別に学んだ。しかしギリシア語では、「自分自身」を示さないままに、その意味を動詞ひとつで表す態があったというわけである。しかし著者は問いかける。カツアゲに遭った人が自分の持ち金を相手に渡したその行為は、能動(自発)だろうか受動(非自発)だろうか、と。文法的には能動であろう。「私は渡された」とは表現しない。しかし、自ら渡したわけでなく、そのように強制された感情は受動だといえよう。これはどういうわけだろうか、という問いかけによって、解決を図るべく知的冒険が展開するのである。もちろん、これは謎解きものであるから、その結論はここでは申し上げらるわけにはゆかない。悪しからず。
 私はこの本によって、スピノザが初めてしっくりきた。スピノザの考えていることが、初めて分かった気がした。……どこからこの話に結びつくのだと思われるかもしれないが、著者は実はこのスピノザが専門的な領域で、そこで出会った疑問から、この中動態の研究に入っていったというのである。つまりスピノザの意識の中に、この中動態の考えがあったことを知ると、そして事実スピノザは文法書を記すなど、こういうことに関心をもっていたのは確実であるから、スピノザの哲学思想にその影響があるとすると、すっきり理解できる場面があるということなのである。レンズ磨きを生涯の職としたスピノザは、その思想が汎神論と非難され、不遇であった。しかしこのスピノザ哲学と中動態の隠れた意味とは、深い関わりがあったというのである。
 最後に、エピローグのように、小説『ビリー・バッド』が大きく取り上げられ、とくにハンナ・アーレントの理解を紹介しながら、自由の議論によって本書は閉じられる。これによって、本書のサブタイトルが「意志と責任の考古学」とあり、決して文法理解の本ではなかったという本意が明らかにされるように気がした。善と徳との違いがこんなに明確に突きつけられるというのは、思わず膝を打つ思いであった。
 申し訳ない。本書をお読みになっていないと、何を言っているか分からない文章であったと思う。なかなかハードボイルドな本であるが、学術書でもなければ論文でもなく、読者の心を掻き回しながら、親切に導いてくれるものである。だからこそこれだけ厚い本となったのだが、私はその分、とても読みやすかったと感じている。帯にある【失われた「態」を求めて。】はもちろん、プルーストのとんでもない長編小説(日本語原稿用紙で一万枚)をもじってのことであろう。だがもちろん本書は、さすがにそこまでは長くないのでご安心願いたい。
 世界を見る目が変わる。私たちが常識としていた「ものの見方」が、いかに制限されていたものか、世界には全く違う「ものの見方」があるのだという地平を拓いてくれる本は、そうめったにあるものではない。本書は哲学的思考に慣れないと一部読みづらいかもしれないが、これはお値打ち間違いないものだと私は考えている。




Takapan
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