本

『死と命のメタファ』

ホンとの本

『死と命のメタファ』
浅野淳博
新教出版社
\2700+
2022.4.

 まるで教科書のように、適宜まとめ、練習問題を投げかけながら、進んでいく。学ぶにあたり、親切な構成となっていると言えるだろう。
 サブタイトルがしっかり付いている。「キリスト教贖罪論とその批判への聖書学的応答」、これはなかなか本書の核心をよく示している。まさにそれが論じられている。また、帯には、このようにある。「「贖罪」とは何か? イエスの死と命の救済論的価値とは何か? キリスト教の核心的な問いに迫る。」これは、販売目的のキャッチコピーであるが、サブタイトルを少し噛み砕いた、と理解することができるだろう。特別に新しい情報が加えられているわけではない。
 ついでに、帯の裏側には、もう少し長い説明があるので、これもご紹介しよう。「「キリストは人間に代って罪を負い、いけにえとして死んだ」という代理贖罪的な表現はどこまで適切か。少数者に犠牲を強いる「犠牲のシステム」をキリスト教神学が内包しているとする哲学者・高橋哲哉氏の議論を批判的に捉えつつ、聖書および関連古代文献を広く検証して、聖書が伝えようとしているキリストの死に至る生き様の真の意味を探り、その意味をいかに語るかを方向づける。」こうなると、かなり内容に踏み込んでいると言える。もちろん筋道をすべて見通すことはできないが、とりかかりのところの良きガイドとなる。
 このように、サブタイトルや帯などは、時に内容を的確に教えてくれる。本を買うときに、必ずしも中をぱらぱらと見て、「あとがき」などを読んでから買うかどうかを決めるとう、従来のスタイルが、注文取り寄せとなると、できなくなっている日常で、このような情報は、できるかぎり分かるようであってほしいと思う。
 近世ヨーロッパにとり、リスボン地震は衝撃を与えた災害であった。思想史は、なんだか人間の思想が次々とただ現れて展開したかのように説明するが、この大震災という、いわば偶然の出来事によって、歴史はすっかり変えられたということについて、案外言及されることがない。神はどうしてこのようなことをしたのか。カトリック教会の祭日に、未曾有の災害をもたらしたのだ。神への信仰を離れる者が現れても無理はない。だが、教会はそこから離れることができない。説明が求められる。イエスの死についても、神がこんなにも酷いことをするものかどうか、疑問も出てくるというものだ。それを徹底的に揶揄した文学作品として、ヴォルテールの『カンディード』は、歴史を考える上で必読の物語であると思う。
 筆者は、イザヤ書という、苦難のメシアのための最大の預言を取り上げ、そこに果たして神殿での犠牲というものがどのように関わっているのだろうかと問う。メシアをこれと重ねることにより、人々は、自分の罪のためだ、ということへと信仰心を傾けていくことになるのだ。
 しかし本書の最も際立つ議論の材料は、マカバイ記の殉教記事との比較議論であろう。マカバイ記でも、最も酷い仕打ちが記された箇所である。いまでは旧約聖書続編ということで、プロテスタントの人は基本的にこれのついた聖書をもたない。しかし私は、いろいろな意味でこれは読むべきだと考えているため、年に一度は必ず目を通す。そしてここを読む日が来ると、憂鬱になるほどに、信じられないほどのリアルな殉教の記事なのである。ここに見られる殉教と、イエスの死とは、比較するだけの価値があるとして、議論を進める。
 新約聖書というものが、書かれた上でどのような理解と信念があったのかどうか、諸説様々であろう。だから、ひとまとめにそれを論ずることはできない。だから股、イエスの死を弟子たちが引き受けて信仰共同体を確立する経緯や、パウロの回心についても、簡単に決めることはできないものであろう。しかし、それは辿らねばならない。議論はパウロ以降の文書へと流れていき、2世紀にもいた殉教者の記事へまで至る。
 犠牲が美しいものなのかどうか。犠牲は空しいものであるのかどうか。私たちは問い続けなければなるまい。単純に、贖罪の救いだ、と喜ぶのを控える必要もあるし、贖罪などありえない、と見下すことも適切ではないだろう。私たちは、否私は、このイエスの死を、私の生き方として受け止め、引き受けて、罪というテーマから目を離すことなく、生かされている限り、生きていくべきなのである。
 本書が、冒頭に登場させた『カンディード』の結論で結ばれる、と言えば、お読みの方はお分かりであろう。私はこうした余韻のある読後感がもてる本を好む。ここから、さあ行こう、という気持ちにしてくれるからである。




Takapan
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