本

『メメンとモリ』

ホンとの本

『メメンとモリ』
ヨシタケシンスケ
KADOKAWA
\1600+
2023.5.

 帯には「姉のメメンは冷静で、弟のモリは情熱家。」と書かれている。ヨシタケシンスケの新作として図書館で見つけた。ラッキーだった。まだ誰も借りていないと思う。
 ヨシタケシンスケ展かもしれない、に先月行った。目録も買った。絵本は書店での立ち読みを含めて、そこそこ見ている。MOEの特集号もよく買っている。そこそこのファンである。誕生日か同じだという奇遇については、後から知った。
 どう紹介してよいか分からない人である。造形作家が絵本作家になったのはそう以前のことではない。誰かに媚を売ろうとせず、自分の角度から見えたものを、飄々たる絵と言葉で表現する。それは誰も描かなかった世界である。しかし、子どもの目線だというところもある。創作メモにそれがたっぷりと現れている。だから読者も、心のどこかに昔確かにあったものを、突きつけられるような気がするのかもしれない。
 ただ、今回のテーマは少しばかり重い。「メメントモリ」とは、ラテン語で「死を覚えよ」というような警句である。人生を大切にせよ、というふうにも捉えられるが、元来は、今を楽しめ、という享楽的な場面が普通だったという。それを、いわば真面目な警句にしたのは、やはりキリスト教だったといえよう。
 さて、本書はメメンという姉と、モリという弟だけの劇場であるが、もちろん「メメントモリ」がモチーフである。中には三つのおはなしが含まれている。三つのテーマで描ききろうとするわけだろう。
 最初は、ちいさいおさらがアイテムである。モリが、メメンの手作りのお皿を割ってしまう。メメンは少し考えてそれを許すが、モリは、かけがえのないものを壊したことを悲しんでいる。そこで、メメンは自分の感情を超えたところで、なかなかよいことを言い始める。
 「ずっとそこにある」ってことよりも、「いっしょに何かをした」ってことのほうが大事じゃない?
 本書で最も輝く頁だったかもしれない。
 それだから、何をしてもいい。ただ、自分で選べることについては、前向きにやっていこう、ということなのだろう。自分では変えられないことも、確かにあるのだから。
 絵はヨシタケシンスケ流である。ちょっとした線の角度や長さで、よくぞこれだけの表情や、考えていることが表現できるものだと感動する。オチはあるものの、もちろんそれは明かさないでおく。
 二つ目は、きたないゆきだるまが登場する。そして、そのゆきだるまの心の声が、物語を展開する。薄汚い、なんの力もなく解けてゆくだけの私という存在が、いつしかそのゆきだるまに同化されてゆくことを、読者は感じるのではないか。けれども、その短い人生は、決して無意味だったのではないのである。
 最後は、つまんないえいがを見たら、それは損なのだろうか、と問いかける。えいがが、人生のように感じられたらいいと思う。あなたはあなたとして生きていく意味がある。「バランスをとるあそび」という喩えは、受け取り方がいろいろだろうとは思うが、「なんのために生きるのか」という、本書の根本的なところを、真っ向から取り上げて終わるというのは、なかなかの構成である。
 しかし、特定の教訓を出そうとしているのでもないことは、最後まで読んでみると分かるだろう。ヨシタケシンスケは、一定の決まった答えを用意しているのではないのだ。それは、読者が一人ひとり、自分の問題として考えていくべきものなのだ。ただ作者は、早合点しないための、作者なりの角度から見える人生を、垣間見せてくれているだけなのである。
 軽いけれども、重い。重いけれども、軽い。飄々とした作者の創作術は、生と死を意識して苦しくなった肩の荷を、ちょっと下ろしてくれる。そのためには、そのことに気づかねばならない。頽落の生活の中で死を意識することなく生きていると、気づかないのだ。考えないのだ。そうなると、本書は、哲学的な気づきを与える光を投げかけるものと言えるような気もする。
 いっしょに何かをしたという人生を刻むことは、死を覚えているからこそのものである。ヨシタケシンスケ氏が、キリスト教的な見方でまとめてくれたことを、うれしく思う。




Takapan
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