本

『名画でみる聖書の世界<新約編>』

ホンとの本

『名画でみる聖書の世界<新約編>』
西岡文彦
講談社
\1680
2000.10

 講談社の SOPHIA BOOKS の一冊。
 西欧絵画にはしばしば暗黙のルールがあり、それを知らないでは、鑑賞もできない。古くは図像学とも言われ、様々な研究が成されてきたものであるが、一応の成果が得られてからは、それを一定のシンボルや記号として了解する捉え方も、より大衆的になっていったであろう。
 信仰ある者ばかりでなく、特別な信仰がなくても、聖書の絵画を鑑賞し、聖書を開くということの意味として、著者は、心が豊かになる、という効果を置いている。「聖なるもの」に出会うことにより、疲れた者が癒しを与えられる、ともいう。
 この本は、イエスの生涯を絵画で見ていくのだが、時折実に的確に聖書の解説が施されていて、その手際よさにも感動する。とくに新約聖書の福音書は、あらゆる場面が絵画になっているとさえ言え、絵の解説なのか聖書の解説に絵を使っているだけなのか、途中から分からなくなってくるようであった。
 私にはとくに、宗教改革と絵画との関係のあたりが興味深かった。ルターがそれまでの教会、つまり今のカトリックに対して反旗を翻したとき、その偶像性を批判するあまり、彫刻や絵画など偶像と呼ばれうるものについて、すべてを否んだ経過があるという。史上初のメディア戦争である。これには画家も困惑したが、それでも、グリューネヴァルトのように、職を失いつつもなおプロテスタント信仰にとどまり続けたという画家もいるそうである。
 今も、プロテスタント教会には、せいぜい木の十字架が掲げられる程度である。カトリックは、逆に芸術の力を伝道に活用して進んでいくのだった。ルターも、その効用を無視しているわけではない。ただ、より図解的なものへと進展させたのである。描かれた像というものは、それほどに、見る者を魅惑し、教化することができるのだそうである。
 見慣れていく人間たちは、リアルなものを見なければ想像することができにくくなっていく。今日のメディアの抱える問題からも、それは容易に理解できる。木の十字架がそこにあるだけ、そこからあの残虐で惨たらしい死刑を想像することが、はたしてできているのだろうか。結局、救いのシンボルとしてのみ十字架がそびえ、信徒といえども、アクセサリー感覚でしか、十字架を捉えなくなっていくという懸念があるのである。
 著者は、元来不可視の神を扱っているがゆえの逃れられぬ宿命であると、この問題を捉えている。ともかく、著者はこのように突っ込んだ、本質的な議論を時々ふっかけてくるのである。
 油断してはいられない。信仰が試されていくようにさえ感じてしまう。




Takapan
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