『メディア社会』
佐藤卓己
岩波新書1022
\777
2006.6
このサイトは、キリスト教信仰に基づきつつ、ただの護教的な弁舌になろうとは考えず、政治運動を目指すこともなく、そもそも人が考えを発するとはどういうものか、どんな罠が隠れているか、そんな視点をも射程において、運営されている。
その大きなキャラクターとして、「メディア」というものがあることについて、意識しなかったわけではない。だが、この本は、改めてメディア論がそのために必要であることに、気づかせてくれた。
京都新聞に連載されていた記事を、必要に応じて修正し編集することで、この本が著された。それは、2004年末から一年間を彩った社会の「情報」にまつわる出来事を、読み解いていく作業でもあった。まさに、サブタイトルのごとく、「現代を読み解く視点」を提供してくれたのである。
詳細は、著者こそ語るべきである。そして私はここで、この本は読まれなければならない、と宣言する。
そもそも終戦と呼ばれる日付について、意見の食い違いがあることは、それなりに耳で聞いてはいても、8月15日というものに、この本に記されているような日本人を象徴するような意味があったことには、初めて気づかされた。うすうす感じていた怪しいものが鋭く指摘され、胸のつかえが下りたような気すらしたのである。
また、「情報」という言葉そのものが、いかに軍事的であったかの説明は、漠然と感じていた語感からしても、そうだったのか、と納得できるための解明そのものであった。
メディアを操ったものとしては、ナチズムが名高い。だが、一般に受け止められる程度の理解を、この本は許さない。いまだに、活躍中のメディア各社は、自らを認識できないままに、危うい橋の上を歩いているようなものに見えてくる。ナチズムにはとうてい思えないようなナチズムが、そこらに漂っているという臭いが、感じられるような思いがした。
新聞連載をまとめたものである。論文ではないし、書き下ろしとも呼べない。著者はたくさんの問題を指摘するが、解決を提案しているというふうではない。私たちが、何を見据えなければならないか、何を基として、現代社会を見つめるべきであるか、道しるべを示す。それでも、進む方向を隠しているわけではない。推測するに、人と人とが信頼のもとに出会い、協同できる、顔を知り気心の知れた、共同体が必要だと捉えているのではないか。
しきりに、現代が、教会などのつながりから外れてしまったこと、そのために自己責任を負わなければならなくなった状況などに触れられているような気がしたのだ。
ならば、その教会が、新たな共同体の基盤として動き始めることもまた、一つの希望の道しるべとなるのではないか。そんな励ましのように、私には聞こえた。いささか自己本位ではあるけれども。