本

『説教集 一粒の麦もし死なば』

ホンとの本

『説教集 一粒の麦もし死なば』
松原和人
ニューライフ出版社
\1000
1986.12.

 一粒の麦について書こうとしたとき、やはり本書を振り返らざるを得なかった。ずいぶん久しぶりに開いた本である。書棚の目立つ辺りに、ずっと眠っていた。
 1905年に生まれ、1966年に召された。言うなれば、熱血の伝道者である。「一麦の群」というグループを立てたことになるが、それらの教会は、教団という形式をとっているわけではない。それぞれ単立の教会である。しかし、「一麦」の名を受け継ぐ教会は、それぞれこの松原和人牧師の信仰をベースに置いている。あるいは、それを憧れとしている、と言った方がよいだろうか。
 日本のキリスト教の歴史の中でも、ややユニークな位置にいるかもしれない。とにかく罪ということについては厳しい。タドン玉のように黒く染みついた罪と戦わねばならない、とする。一部からは、厳しいとか律法的だとかいう悪口も受けたようだが、信仰について聖書に真正面から向き合っただけの話であって、逆に言えばそういう目でしか見られない立場というのが、温すぎるのである。
 松原牧師は、「きよめ」に至る信仰を説く。「きよめ」は、たとえばホーリネス系のモットーのようなものである。そのため、ホーリネス教団の神学校に、一麦の群の献身者は行って学ぶ。聖書を実体験するようなところがあり、もちろん聖書そのものや歴史などを学ぶのではあるが、神学生自身の信仰とその生活とが問われるような学びとなる。口先だけで聖書を説明するような聖書講演会のような「牧師」がいる組織からは、想像もできないだろう。だから、こうした学びを終えた説教者の語る説教には、命がある。本人が自身に厳しいのであるから、信仰を語るにしても、鋭いものがあることは確かである。
 さて、本書は「説教集」という言葉が載せられているものの、実際の説教がたくさん載っているのではなく、本人の回想のような部分が多い。また、「説教」という章になっても、どこからどこまでが一つの説教であるのか不明である。恐らく、幾多の説教で語られたもののうち、特定の項目についてのエッセンスが、ここにまとめられているのではないかと思う。それがいつ語られた、というような情報も添えられていない。添えることができないのではないかと思う。
 たとえば、その「説教」の章には、大きな項目が並んでおり、「聖潔」「リバイバルを求めて」「聖霊のバプテスマ」「神癒」「日本を救うもの」「祈り」「再臨」「キリストを迎えなさい」「新生の必要」「自分に死ぬ」といった具合である。これらの項目を見ただけでも、その信仰の鋭さというものが伝わってくるかもしれない。
 もちろん、いまの時代にこれらをそのまま実践するべきかどうか、それは分からない。かの時代ならではの雰囲気もあるだろう。とくにいまでは、「神癒」という伝道を聞くことは殆どない。昔は、キリスト教の伝道の集会(「幕屋」などと呼ぶこともあった)には、病人を人々が連れてきたものである。そして祈るなどのことをして、実際に病気が治るということが、幾らもあったのだ。その具体的に例は、本書でも書かれているが、言うなればイエスが福音書の中で見せているような「癒やし」が、現実に起きた、ということである。すべての人が、イエスのときのように癒やされたわけではない。だが、中には確かに癒やされた、ということは本当にあったと思われる。
 「聖潔」は「きよめ」のことである。「自分に死ぬ」ことにより、聖霊が盈満し、キリストが内に生きるという強い体験をする。本書でも、幾度かガラテヤ書2:20とその近くが引かれるのは、そのためである。その体験が「聖霊のバプテスマ」と呼ばれるが、これは聖書の中にその言葉がある。それが単なる昔話ではなく、いまもあるということを証しするような本書の意義は大きい。そんなことを、端から信じていない「クリスチャン」がどうやらいるらしいのだ。
 まして「リバイバル」というのは、特に戦後プロテスタントでの合言葉にもなり得たものであったが、もはや誰ひとり、といっていくらいに、その言葉をキリスト教界で聞かなくなった。ただの宗教団体となり、命のない講演会を繰り返す団体が、社会運動に意見しなくてどうする、というように、信仰を強調する教会に対して見下すようなことすら一部にはあると聞く。そういうところからは、とてもとても「リバイバル」というような言葉は囁かれすらしない。
 そういうところでは、失礼だが、「新生」という概念すらない場合が実際にある。いったい、キリスト教とは何であろうか、と、こちらがおかしくなりそうである。ただ、お断りしておくが、松原和人さんとそこから生まれたグループが、他の教会を軽んじているというようなことはなく、地域のプロテスタント教会とよく交わり、協力して活動しているのは事実である。異端的な眼差しで見ることは、適切ではない。
 本書で松原牧師は、自分の証しから本書を始める。だから、56頁までは「証し」である。我が身の生い立ちに始まり、勉学の才能はあったものの、大学で人生に望みをなくすような経験をする。この辺り、私も少し近いところがある。そこである教授の宗教講演で目が開かれ、求道することとなる。その道は、絶えず聖書の言葉に導かれる。現代の生温い教会には、この聖書の言葉により導かれる、という話がとんと出てこない。自分の考え、世間を見渡しての判断により、行動を起こすことばかりである。そしてその思いつきを安心させるために、祈りましょう、という程度である。どこにも、神が主体として現れてこない。
 しかし松原和人さんは、いろいろ自分の至らなさを思い知らされる。正にタドン玉のような罪を、身を以て知る。こうまで肉欲という問題を表に出すこのような証しに出会うことは珍しい。だが、それほどまでに、自分の罪を告白し、自分に死ぬのだ。「自我の磔殺」という言葉も、近年殆ど聞かないものだが、それがあってこそ、罪よりの解放があるというものである。幾段階も経て、「きよめ」を体験するに至る、その一つひとつの過程をきちんと自覚していて、それを万人の前に晒すのである。
 活けるキリスト一麦教会を始めたのが、太平洋戦争開始直後。しかし戦後20年ほどを、松原牧師はただ信仰一筋に駆け抜けた。キリストマニアと言っても過言ではないほどに、キリストを見つめていた。そうまでしなくてもよいのではないか、という声があったら、それは悪魔の声だ、と振り払った。時にそれは、あまりに自分だけの信仰の道であったかのようにも見える。人々との横のつながりや、愛ある交流というものについて、目立った発言がないのだ。だから松原牧師の言うことがすべてだ、と決めてしまうのは少しためらってしまう。しかし、しょせん個人の信仰があって、個人が神との関係をどうするのか、という点が根柢にあるべきだとするのならば、その信仰の道は、すべてのキリスト者の前にも同じものがある、と言わねばならないだろう。
 本の題は「一粒の麦もし死なずば」というヨハネ12:24の言葉ではなく、それに続くフレーズとアレンジしている。もし死ねば豊かな実を結ぶ、という積極的な方面へと推し進めたのだろうか。長くなったが、その「一麦」のエッセンスの部分を本書の中から引用させて戴こう。
 ――この教会の名は一麦教会と言うのですが、それは"一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにて在らん、もし死なば多くの実を結ぶべし"(ヨハネ12・24)の聖言から取った名であります。
 福音の真髄とは何でしょうか。自分に死ぬことであります。多くの人は「自分を何ものかにしたい」と思って教会に来ます。しかし自分を自分をと考えて自分を生かそうとしているうちは真の信仰には到達出来ません。自分を何かにするのでなく自分に死ぬのです。そうすると真の生き方が出来るのです。自分では死ぬことは出来ませんが、信仰により十字架に主と共に死ぬことが出来るのです。あの十字架の姿は自分の死んだ姿だと信じられてくる様になるのです(ガラテヤ2・20)。
 一粒の麦が地にまかれて、暗く寂しい誰も顧みてくれない地の中に埋れています。然しやがて時が来ると芽が出て実を結ぶ様になります。
 私たちもその様に死ぬのです。世の誉に、たのしみに、肉の欲に。否自分そのものに死んでしまうのです。これが当教会の生命としているモットーなのであります。(p155-156)。――
 最後に(あとがきにかえて)と題して、和人牧師の死後、一麦の群の主管を長く務めることとなった妻の松原向(さき)さんの文章が載せられている。生涯胃の弱さと戦い続けた夫は、神癒の業を信じ伝えていた以上、手術を受けるということに、ずいぶんと抵抗があったそうだ。妻から見た和人牧師の姿は、本書の本文と、また違う一面をもっていたはずであろうが、流石そこは、信仰者としての夫を、別の角度から強く支えるように描くこととなった。本書の最後にそれを味わうと、またいいものである。
 襟を正された。背筋をぴんと張ろう。




Takapan
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