本

『「待つ」ということ』

ホンとの本

『「待つ」ということ』
鷲田清一
角川選書396
\1470
2006.8

 受験業界では、鷲田清一というのは、かなり有名である。とにかく最近、出題文章に採用されることが多い。哲学者であるので、概念的にかなり高度な部分もありながら、必ずしも難解ではない。さらに言えば、ある国語問題の研究者によると、適度に論理が破綻しているからこそ、問題として利用できるのだそうであるが、そこのあたりは、さしあたり判断を留保しておくことにする。
 よい本というのは、読みながら、様々なアイディアを浮かばせてくれるものである。ただそのストーリーや論理に振り回されるというだけでなく、読者が、「ああそうか、あれはああいうことなんだ」と別のところで納得できたり、「ならばあれはああなるんじゃないか」などと、新しいことを発見する、あるいは新しい考えが浮かぶといったことになったりするのである。その意味でも、この本は、よい本であると言える。
 哲学的とは言いながら、相当に柔らかい。それもそのはず、角川書店の広報誌に連載されているものをまとめた本であるという。実に詩的で、気分的な要素も取り入れている。しかし、気分が伴うので哲学的でない、などとは断じて言えない。ハイデガーが、そうした人間の心のありようをまともに取り上げることをしているが、考えてみれば、デカルトの情念論など、人の心のはたらきについて、哲学者はなんとか説明をしようと努力してきたのだと言えよう。
 さて、前置きが長くなりすぎた。実はこの本が出たとき、私は「やられた」と思った。私はこの「待つ」という概念を探究してみたいと常々考えていたからである。すると、これを真正面から取り上げた本が発売されたのだ。悔しくて、しばらく読むこともしなかった。が、そろそろ時期かと思い、購入して読んだ。
 思ったよりも詩的で驚いたが、観念だけで切り崩すこともなく、またきわめて科学的な処理で満足することもなく、心がどう「待つ」ことを捉えているのか、それを探す旅のような連載であったというふうに見えた。待つとはなしに待つこと、いったい結果の分かっているもの、確実に手に入るものを、私たちは「待つ」という考えで捉えないのが普通である。結果が分からずして、あるいは確実性が分からない不安な中で、「待つ」ことを私たちはよくする。さらに、その苛々したものから解放されていくような精神過程もまた、経験することがある。
 連載ものであるから、思考の中に時間的隔たりが感じられる。筆者も告白しているように、中途に考えの揺れが見られる。だからまた、体系的に論じたわけでもないし、その意味ではまとまりが確固たるものとしてあるということも言えないだろう。だが、先に記したように、その選んだ具体的場面とその背後にある実に抽象的な心理的背景でさえ、読者の連想を促す強い作用を有しているので、読んでいて心地良い。思ったよりも早く最後まで行ってしまってもったいなかったほどである。
 私は、かつて時間を軸に考えようとして哲学に挑んだ。それは見事に砕け散ったわけだが、それはキリストとの出会いの中で、ある意味で雲散霧消した。ただ、この聖書の中でのつながりから、今度は「待つ」という概念が時間の地平において中心的な役割を果たすことを感じてきた。もはや「時間」ではなく、「待つ」ことが私の思考枠となったのである。これは、キリストを待つということにほかならない。
 この本の叙述の中に、どうにもこのようなキリスト教的な「待つ」概念がうっすら背後に見え隠れしてくるような気がしたのは、私だけではないと思う。いつしか「待つ」ことは、「祈り」や「希望」の地平で捉えられていくものとなっているのだ。ではクリスチャンにとって「祈り」とはいったい何か。それもまた、「待つ」に開かれた世界の内で初めて一定の規定の中に収められていく可能性が与えられるのではないか、というふうにも見えた。著者がまるでクリスチャンであるかのように見えてくるのである。それほどに、この「待つ」という概念は、聖書世界の中心を貫くものであるように、私は睨んでいる。
 キリスト教が衰退しているなどとも言われるが、それはこの「待つ」ことを現代社会がどう捉えているか、ということと無関係ではないようにさえ感じられる。連想は逞しく、そうしたところにも及ぶのである。




Takapan
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