本

『真っ当な日本人の育て方』

ホンとの本

『真っ当な日本人の育て方』
田下昌明
新潮選書
\1260
2006.6

 タイトルに少し怪しいものを感じながらも、必ずしもアメリカ式育児が日本人に合っているとは限らないというような視点は、説得力があるかもしれない、と思いながら本を開いた。
 これは、子育てについて日本で権威であるような一人の手による、育児論である。
 抱き癖をつけるな、というのはよいアドバイスではない。このことは、最近の育児書の傾向としては常識となっている。特別新しい主張ではない。ところが、アメリカの、例のスポック博士の育児書を取り上げ始めたころから、論調が目立って奇妙さを帯びてくる。
 著者に言わせれば、スポック博士は悉く間違っている。日本人に適さない、というふうな言い方ではない。誤っているのである。その問題点が列挙されている頁があったが、私には、なぜそれが問題なのか、よく分からないものも多かった。
 それから、急に、胎教をテーマに論じ始める。今度は一転して、胎教礼賛である。さしたる根拠もなしに、胎教はとにかく全面的に善であり、胎教について言われていることはすべて真理とされる。
 だんだん本性が明らかになってくる。育児に関して、父親の出番はないというのだ。もちろん、入浴させるなどの役割を分担するのはあるのだが、精神的に、父親は子どもに影響することがないらしい。父親は、舞台の床のようなものであるが、手出しはできない。舞台から手足が出てきたらおかしい、というのだ。子どもの年齢別に、父と母と子との関係の図式が丁寧に記されているが、首をひねるものばかりである。
 何か世間で言われているようなことについても、一旦非難が始まれば、悉くそれについては悪だとされる。これでは、世の母親は救われない。いや、この本を読む、育児真っ最中の母親は、打ちのめされることだろうと思う。おまえのやっていること、おまえの考えている育児というものは、悪の限りであるから、すべて著者である私の説に従うように改めよ、と聞こえてくる。母親は、全部母乳で育てなければ、問題のある子どもが育つのであり、仕事もしてはならず、保育所はだめである。指の分かれぬ手袋を与えると子どもの頭は悪くなり、オンブこそあるべき姿である。とにかく、保育所に行かせたケースの、ひどい例を紹介して、保育所に預けることは全面的に悪であるかのように描く。著者の気に入らぬ説は、すべて厳しく断罪される。
 読んでいる途中から、この著者は、自分が受けた育児あるいは自分の小さかった時代の育児を理想化して、それを正当化するためには何でも持ち出すし、それに反するものは、悉く断罪するのだということが分かってきた。
 著者によれば、母性愛はDNAに刻まれ、父性愛というものはDNAには、存在しない。動物は我が子を愛するということはありえず、そのように見えるのはたんなるDNAのメカニズムに過ぎない。
 自分が受けた時代の育児こそが、日本の伝統であると錯覚している。少なくとも庶民レベルの日本の育児は、江戸時代までは決して著者が思いこんでいるようなものではなく、女性が著者の言うほどには、子育て専門マシンのように扱われていなかった。文化により育児は違うゆえに、子に日本文化を教えろと主張したその続きで、遵法精神を突然持ち出す。日本文化は、法的に厳密なところがあっただろうか。何が善であり何が悪であるかを、つねに唐突に持ち出す著者は、恐らく「自分の中では」その峻別があるものだろうと思われる。
 決めつけが多く、あまり根拠なく他を徹底非難して悪となす。自説はどんな理由を持ち出しても善であり、他説は、すべて子どもの犯した事件や子どものよろしくない傾向の原因となる。
 この人自身は、自分で子育てをしたことがないのではないか、というふうに思えたが、それにもまして、何かひっかかる。どうしてこうまで、思いこんでいるのだろうか。
 その疑問が、最後の2頁、つまり「あとがき」で見えた。自分の出生にまつわる事柄が記されているのである。この人は、出生児の特異な状況によって、心理的に、固定的な価値観が養われ、それを認めなければ自分の出生が否定されると思いこんでいるのかもしれない。その自分の存在をかけた思いこみこそが、「人の痛みのわかる心やさしい日本人」の、唯一の姿なのである。
 読まないがよろしい。とくに、育児を現に引き受けている母親の皆さんは、読んではいけない。すべてが悪だと断罪されてしまうし、「あなたは真っ当な人間を育てていません」という圧迫ばかりを受けることになるだろう。
 自分で子育てをすることなく、明治期以後の富国強兵を目指す日本こそが日本の伝統文化であると確信している男性は、読んでもよいだろう。そして、これこそが子育ての理想である、とよい父親を目指してみるとよいかもしれない。
 そんな本である。




Takapan
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