『待ちつつ急ぎつつ キリスト教講話集W』
井上良雄
新教出版社
\1700+
2017.8.
タイトルは、同じ著者がブルームハルト父子について書いた評伝のタイトルにも使われていた。しかしこちらは、著者自身の講演である。時に説教という形ででも語ったという著者であるが、修養会や神学校での講演なども多いことから、「講話集」として集められたものの第4巻であるという。「新教新書」という形で、新書の体裁で出されているが、285頁まで書かれているボリュームのため、価格にも納得である。
井上良雄氏は、牧師ではない。元々批評家として活躍していたが、その後洗礼を受けて、信徒となり、教団では社会委員長を務めたという。そこでその筆を揮い、社会へも眼を開く文章を認めているが、それは基本的に、教会内部へ問いかけるものとして、力を現した。ドイツ語が堪能であることから、カール・バルトなどの翻訳を手がけ、特に本書ではバルトの『教会教義学』からの「和解論」の紹介が目立つ。
本書には、1960年代から1990年代晩年のものまでが収められており、その考えや言い方の熟してゆく様も見てとれるが、だが本人の信仰の核心について変化するものではないだろうから、こうして読んでくると、幾度も念を押すように語られることが心に残るものである。
タイトルの「待ちつつ急ぎつつ」という言葉を掲げた講演は最後に掲載されたものであるが、現代を「中間時」と認識し、キリストの十字架と復活そのもので世が終わりにならなかったことの意味を受け止めるべきだ、とするその姿勢は、本書の随所で感じられるものである。しかも、私たちがそこに置かれていることを重く受け止め、いまここで私たちは何を恵みとして受け容れ、何を世に現してゆけばよいのか、考えようとしている。否、考えさせようとしている、と言ったほうがよいかもしれない。だが、押しつけがましいことはなく、淡々と、自らに言い聞かせるかのように綴っている点も、よく伝わってくる。
冒頭は、作家の高見順氏の訃報から始まる、やや重たい始まりとなったが、神学校や受洗者のための挨拶のようなものが続き、話題が豊富で読んでいても楽しい。ただ、中途から「戦争責任」が問われ、教会の問題を扱うというのは、かなり本腰になった議論ではなかったかと思う。
属するのは、日本基督教団である。太平洋戦争に際して無理に合同させられ、戦後は自由になる教会も出る一方、そのまま教団に留まるところも少なくなかったという。そのため、特別な教義で塗り固められた特色をもつわけではないとされる。社会問題に強く出て行く教会もあれば、必ずしもそうでない教会もあろう。大阪万博でのキリスト教館問題は、教団自身の不和を表に出すこととなり、教職制度で反発を招いた内部事情もあるようだ。統一の難しい情況に置かれる中、社会委員長としても著者は困難の中にあったのではないかと思われる。
しかし、そのごたごたについて愚痴を述べるようなこともなく、信仰とは何か、聖書は何を言っているか、そうしたことに関わる話が多いのは有り難い。それでいて、社会問題も背後に控えていることが感じられることもあり、その意味ではバックボーンがあり、現実に根ざしているという意味で、より信頼の置けるものとなっているのではないだろうか。
教会に託された「知」というものがあるのなら、それを世に開いていかねばならない。教会には礼拝が確かにあるが、「集まる」ことで、世に証ししてゆくものも有している。バルトは、ナチスと闘った神学者でもあった。日本の教会はそうした闘いを経験しなかったとするならば、バルトの前にもう少し謙虚に耳を傾けてよいと思われる。何もバルトがすべて正しいというわけではないが、それをとやかく高みに立ってどうのこうのと料理しようする姿勢があるとしたら、何か違うのではないか。著者はそこまでは言わないが、私にはそのような声が聞こえてきそうな気がした。
キリストに出会い、悔い改め、信仰が与えられ、新しい命を受けた。ああ、キリスト者は神の祝福を私たちにもたらしたのだ――それだけで私たちの信仰は終わりなのだろうか。著者は力をこめて、否と言う。それはエゴイズムだ、と。私たちには委託されたものがある。いまここに派遣されている。この意識を、「神の国と神の義」というところに立って身に受けようとする辺りは、確かな信仰の眼差しであると言えるだろう。そしてそれは、私たち自身へと向けられているものである、と言わなければならない。
その意味でも、「私の理想とする人」という題で紹介された、シュザンヌ・ド・ヴィスムという女性の生涯は、あまりにも地味であると同時に、あまりにも私たちの心に射し入ってくる光であるのではないか。ここを本書のハイライトとするのは、著者に対して失礼に当たるだろうか。

た
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