本

『まちがえる脳』

ホンとの本

『まちがえる脳』
櫻井芳雄
岩波新書1972
\940+
2023.4.

 脳科学が流行している。研究者の間では、分子レベル、あるいは物質的な観点からの研究が進んでいる。他方、誰もが有する「脳」であるから、一般の関心も高い。自分の脳はどうなっているのか。知や記憶といった点への興味だけでなく、近年はAIが話題に持ち上がることで、否が応でも関心をもたざるをえなくなっている。一部のメディアの煽りには、半分の仕事がなくなる、などというふうに、パニックを呼びかねない触れ込みなのだ。
 ただの興味という点でも、脳については、だいぶ分かってきた、というような気配が漂う。文章を書くのが巧い人が、そのようにけしかけているからだ。いま脳はここまで分かった、というふうに、一応謙虚であるにしても、伝わっていることは、脳のことがたくさん解明されたぞ、ということと、もうじき全貌が分かる、というようなことである。
 本書は、そのスタンスと反対に立つ。というより、世間のそうした思い込みに真っ向から立ち向かう。だから、同じ脳に関する啓蒙的な新書ではあって、類書とは一線を画するものだと思う。
 脳はいい加減である。脳は間違う。実をいうと、この方が私などにはピンとくる。自分はなんと判断ミスをし、言われたことを覚えられず、自分の感情に囚われているか、馬鹿さに嫌悪するばかりである。そう、私は少し前から、人間が「まちがう」とはどういうことをいうのか、興味があったのだ。脳科学というものであっても、思考の論理などであっても、「正しい」推論や認識がどのようにできるのか、ということについては、多くの書が説明を施そうとしていた。
 これは昔からである。カントは人間の認識能力を「批判」した。つまり、検討した。そのとき、如何にして自然科学は可能であるか、という問いから始めたようなものなので、当然であったが、あくまでもその判断は「正しい」者であった。だが私は現に「まちがう」者である。認識能力が「正しい」ことを導き出すのであれば、どうして人間は「まちがう」のだろう。
 イドラによりまちがうのだ。ベーコンは近代初期に人間の陥りやすいまちがいについて警告した。だが、その説を唱える自分自身にはその「まちがい」は忍び込む隙間はないものとしていた。哲学者たちは、自分の説くことには「まちがい」はないものとする前提で議論してきた。でも、その哲学説は次世代の若者により批判され、乗り越えられていく。多くの「まちがい」がそこに潜む。現に私もあなたも、日々まちがいを犯し続けるのである。
 脳は「まちがう」。それは、ニューロン間の信号伝達の曖昧さに基づく。筆者は前半を、そのことを読者に理解してもらうために力を尽くす。脳科学の事実に立ち会いながら、安易な夢想を思い描くことをこれまで売らんかなの本で思いこまされてきた読者は、警戒しながらも、その説得に応じざるをえなくなる。もちろん高度な専門的知識が必要なふうには書かれていない。
 筆者は、脳活動の「ゆらぎ」がそこに生ずること、それ故にそこから「創造」が始まることを提言する。私はさらに、そこに「自由」を考察することも可能ではないか、と考えたが、小著にはそこまで深入りする余裕はなかった。もちろん私の見当違いのためであるかもしれない。ただ「まちがう」からこそ修正も可能なのであろうし、別経路の解決を考慮する気持ちにもなれる、とも言えるだろう。自分の認識と判断がもう間違いなく正しい、という前提があり、一切の修正に応じないとなれば、これはかなり狂っている人間であり、危険極まりない存在であることになるだろう。尤も、こうした人間は現にいるし、若干増加傾向にあるのではないか、という懸念を私は抱いている。
 では「心」とは何か、それを明らかにすることも、やはりできそうにない。しかし、実際の研究の中で、「病は気から」という言葉には一面の真理があることも、本書は明らかにしている。いわゆる「プラセボ効果」というものには、確かに偶然ではない効力が潜んでいるというのだ。薬と称してただのブドウ糖や小麦粉などを処方しておくと、一定の治癒効果を見いだすのは事実なのだそうだ。これは、脳が自らを制御していることを想定しないと説明できそうにないのだという。脳は、自ら働きつつ、自らを修正することができるらしいのだ。そこに、創造性という名で力を見いだすことも、なるほどできるかもしれない。自由という言葉のひとつの意義を見いだすことができるかもしれない。
 AIが脳になれない、という筆者の主張も、脳の解明を期待している平凡な私たちの抱く感情とは別のところで、主張されている。脳は、実は、分からないことだらけなのだ。
 活動する脳を研究しているわけではないことが、その理由のひとつとして示される。だが私は、それを研究し、考察している脳科学者本人の脳はどうなっているか、というレベルで質問したい。誰かの脳を頑張って調べたとしても、調べている当の学者の脳がどうなっているのか、どのような脳の働きによってそれを調べているのか、などについて考えてみると面白いのではないか、と思った。もちろん、そう思っているこの私の脳もどうか、ということである。
 だから、AIが脳になって人間を支配するという安易なSF的想像に配慮する必要はないだろう。ただ、AIが脳になるぞ、と世間を煽って、その言い分を究極の真理のように目の前に示して、人の心を支配しようと目論む者が現れる可能性はある。否、必ず現れる。なんだかんだと暴力的権威を以て自分の言動を真理そのものだとする者は、これまでも現れたし、いまもいるわけである。
 安易に騙されないためにも、本書は私たち生活レベルの問題から、社会的政治的問題までを、最悪の事態から防ぐ力を隠し持っているかもしれない。私は、そう見つめている。もちろん、宗教的な人間支配と操作からも、それは守る知恵を授けてくれることだろう。宗教そのものが人の心を悪にするのではない。宗教を利用して、人心を操ろうとする者がいるのだ。その当人ですら、自分は操ろうとなどしていない、と主張するほどに、いうなれば悪魔に操られているというところが、また恐ろしいものだとは思うのであるが。




Takapan
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