本

『数学でつまずくのはなぜか』

ホンとの本

『数学でつまずくのはなぜか』
小島寛之
講談社現代新書1925
\756
2008.1

 面白い観点だった。「まえがき」は、よく分からない。いや、最初にこの「まえがき」を読むと何のことか分かりにくい、という意味である。本を読み終わってから、再びこの「まえがき」を読むと、しみじみと伝わってくる感じがする。
 私はむしろ、まず目次に惹かれた。
 中学生に数学を塾で教える身とあっては、その中学生が、数学のどのような考え方において壁を越えられないのか、ということには、強い関心があるのだ。この本は、タイトルからしても、そのような点から、中学生たちが、あるいは数学に敵意すら抱く人々が、数学の何にひっかかっているのか、を教えてくれるような気がしたのだ。
 その意味で、はじめのほうにあるのだが、数学ができない生徒たちが、数学が、あるいは論理が分からない、というのではなくて、記号の約束事が呑み込めないのだ、という丁寧な指摘は、面白かった。ソクラテスの弁証法ではないが、子どもたちが、論理そのものにおいて破綻しているという気は、たしかに私もしていない。誰しも、導き方によっては、まっとうな結論へ到達することは可能なのだ。しかし、与えられた約束の中での数学という作業が、どうにもうまくゆかないということはある。それは、何に原因があるのか。たしかに、私も知りたい事柄なのであった。
 だから、数学を教育するというのは、科目としての数学を説明することではなくて、人間のそもそものものの考え方や論理規則を扱うことだと、私は考えていた。作業の段取りを考えるという実用的な側面もある一方、人間は原因結果などの論理を本来どのように捉えて考える性質をもっているのか、という、認識論とも存在論ともいえるような、哲学的観点が、どうしても必要なものだと考えていた。
 この本は、そういう哲学的な捉え方が重要であるという背景を保ちつつ、描かれていた。だから、私自身も、実は「まえがき」から読みやすかった。そして、代数・幾何・解析(関数)という、中学生の必須項目に分けた章の成り行きは、十分期待に応えるものであった。
 著者もまた、塾で教えていた経験から、このような問題意識をもつようになったようだ。ある程度自由に教えることのできる塾というのは、哲学的なものを求めるならば、案外よい場所なのかもしれない。生徒が数学の点を取れるためにはどうすればよいか、が至上目的である見かけのわりには、実は、そのために哲学的な実験や解読が、日々なされているものなのである。これが公教育だと、おそらくそうはゆかない。そこは、政治的な場であるからである。
 さて、そのように楽しく読ませてもらっていた本であるが、後半になり、風景がずいぶん変わってきた。自然数がなぜ自然数であるのか、という辺りから、数え主義の教育から遠山啓の活躍と、ペアノの公理へと流れて、集合論からデデキントの無限へと連なる流れは、本来のこの本のタイトルからはある意味でかけ離れてしまっていた。いや、中学生は、なにもラッセルのパラドックスのために悩み困って数学に苦しんでいるのではない、などという意味において。
 だから、本のタイトルが果たして最善であったのかどうか、というと、疑問である。それとも、私にこの本を買わせたのだから、タイトルは最善であった、という言い方もあるかもしれないが。
 さらに、後で参考図書に、著者の本が入っているのを見て、そこで、思わず叫んでしまった。「やられた!」と思った。
 なんのことはない。私が愛用している、「高校への数学」の特集本の著者であったのだ。ああ、なんということ。あの一見奇妙な、それでいていぶし銀のような輝きを示す文章の主が、この新書の著者だったのだ。なんだかそれだけで、この本の作り方など、すべて納得してしまったような気がした。
 だいたい、『数学ワンダーランド』など、中学生のための読み物じゃないのではないか。塾の教師がこっそり読んで、生徒の前で威張るための本ではないか……いや、これは冗談交じりの言い方である。高校の定理や高度な数学を使うことなく、中学生が使える方法で、様々な問題に立ち向かうというのは、私のように数学の専門家でない者にとっては、ありがたい。そして、それこそが、人間いかにしてものを思考するか、という問いへのアプローチにほかならないと感じてならないのだ。




Takapan
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