本

『○に近い△を生きる』

ホンとの本

『○に近い△を生きる』
鎌田實
ポプラ社新書001
\819
2013.9.

 不思議な本である。それは著者自ら吠えている。「はじめに」の冒頭で、「世界一、とは言わないが、とにかく「変」な本をつくってやれと思った」から始まるのだ。
 あまりにも多すぎる改行は、メールを読み慣れた人には読みやすいかもしれないし、どんどん読み進むことができるという意味でも、読者の負担は軽減するかもしれない。
 練られた文章だというよりは、著者の人生観からあふれてくる言葉をそのまま書き留めたかのような印象の残る本である。これは通例の本を読み慣れている人からすると却って分かりにくいものだが、少し読んでいけばその雰囲気には自然と慣れてしまうだろう。  題にも工夫をした。これは五十音で並べると、やはり「ま」のところだろうか、などとおかしな想像をしてしまう。サブタイトルに「「正論」や「正解」にだまされるな」とある。いわばこれが、この本の命であり、また全てである。最初から最後まで、このことをゝ伝えているのである。
 しかしまた、脈絡のないお喋りであるかのように、次から次へと連想が働きながら本がスピードを上げて飛んで行く。
 著者は一つの筋を通す。いわゆる皆が正解と見なしていることがすべてではない。「別解」があってよい、というのである。ひとつの状況倫理ではあるのだが、常に別の視点を用意しようという心は、基本的に精神を若くするものだろう。硬直して、思い込みの中にしか過ぎないのに、それが当然、それ以外は異常、とする思考が、如何に世に溢れていることか。社会の原理をそれが支配していることに、著者は抗う。それはまた、私も同じようなものかもしれない。少し斜に構えるなどと言うと格好付けているような気もするが、それだけではただの気障にもなりかねない。著者は、それを実行している。そう、そこには実行力が伴うべきなのである。行動として実現させなければそこに意味は生まれないということも、この本では同時に強調されている。
 ともかく、○と×ですべてを振り分けようとする人間の思考への反省を促す本である。それを△と表現しているのだ。神ならば○と×に分けることは可能だろう。だが、人間にはそれはできない。分からない。ただ、著者はこのことを筋道立てて述べようとは考えていない。まとまりも、あまりないように見える。思いついたことをだらだらと綴っているように見えて仕方がない。もしかすると、綿密な構成があり、隠れた構造がこの本にあるのかもしれないが、私は見抜けなかった。それでも、自分の思い、社会での出来事、親しい人の命を懸けた行動などを語りながら、最終的には自分の生き方につないで、さらに未来に目を向ける。読者がどこまでその流れに誘い入れられていくのか分からないが、自分の生き方について何か目を開かれる人は少なくないのではないか。端から、著者はバカだ、俺は違うね、と蹴飛ばすのだとすれば、その人にはおよそ自由がないような気さえする。
 ただ、この○と×と△というのは、ひとつの象徴的あるいは比喩的な表現であり、では人生で出会う出来事のどれが○であり×であり△であるのか、またその△こそが選ぶべき道であるのか、そういったことがここで決められているわけではない。やはり、社会全体がひとつの正解を規定することに対して、「そうでない見方もある」という可能性への導きであると見たほうがよいのではないか、私はそのように捉えた。
 政治は、大きな全体としての社会の利益を優先して然るべきである。そこに一人一人の最善が随伴するわけではない。私たちは一人一人の人生を生きる。しかしいつしか政治的な理論に乗っかるほうが楽であるようになり、自ら大勢に加わりそれを正道として、そしてまた唯一の正道として掲げるようになる。これが強い生き方であり、流れに棹さす賢明な生き方なのであろう。だが、それは少数の誠実な者や、その流れに乗れない者を排除し、それを非道と価値付ける暴力に加担することにもなっていく。別の視点、別の選択に意味を見出すことを促す提案には、私は基本的に賛同したい。
 サブタイトルの「「正論」や「正解」にだまされるな」は本の背にも見えているが、あるいは「正論」は『正論』のことではあるのか、そこまでは読み込まないでおいたほうがよいだろうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります