本

『まんが 哲学入門 生きるって何だろう?』

ホンとの本

『まんが 哲学入門 生きるって何だろう?』
森岡正博+寺田にゃんこふ
講談社現代新書2216
\819
2013.7.

 なんとも読みやすい哲学書だこと。同じ紙量を使うなら、もっと内容豊富で詳細で多様な考察を載せることもできるだろうに、これほどの内容だったら、数頁で済んだかもしれない、と思われるのだが、どうしてどうして、これは充実した読後感を与え、読み砕いた気持ちにさせてくれる。この意味は大きい。こういうことは、すうっと言葉で読み進んでそれで分かったようなふりをするのは危ないのだ。むしろ、著者が後で記していることだが、マンガだからこそ、言葉にしづらいような、あるいは言葉にどうも乗せきれない部分を、コマのイラストの中で示せたようだ、という感想は、かなり正しいと思う。
 そう。哲学書は、元来言語に頼りすぎていた。哲学という営みは、善く生きることだということなら、ギリシアという哲学発祥の歴史から言われていることだが、言語と行為の営みを往復するような運動の中で、ああだこうだと論じ合っていたような気がする。
 だが、そうだろうか、と私も実は思う。言葉は、時間の中で辿られていく。その言葉により、時間というものを論じることは、どだい無理なのだ。何か言葉を発した時点で、時間は刻まれ動いているとなれば、言語自体が時間の波に運ばれていく中で、その波とはなんぞやなどと論じきることができるはずがない。空間で、いわば同時的に示すという営みが、時間にしばられない哲学的思考を呼ぶことは、至極当然のことであるかもしれないのだ。もちろん、その絵を、時間をかけて眺めていく、ということになればまた同じことなのかもしれないが、やはり空間の中で同時にそこに存することを許す可能性は、ただの言語的説明とは別の次元を確かにもつと言えるのだ。
 どうせ死ぬ。ならば何故生きなければならないのか。
 まるで、現にどこかにいるような人の叫びからこの本は始まる。全編がマンガである。それも、哲学者たる著者がすべてコンテで描いたマンガである。だから、主人公はただのマルに目と口がつき、足が生えているだけの、子どもの落書きのようなものである。まんまるくんというこの主人公が、悩む。そしてエム先生という、著者を代弁するまるで博士のような、あるいは師匠のような先生が答え、またそれを決して押しつけず、まんまるくんに投げ渡す。ソクラテスの対話篇を意識しているのも分かる。また、ときおりハイデガーの説明を取り入れているとか、誰それのテーゼや議論を持ち出したとか、におうこともよくある。それでいて、強調点は著者独自の主張もあるようだと感じることもあり、なかなか楽しめる。このコンテを、プロの漫画家がペン入れをして、鑑賞に堪えるものに仕上げている。冗長でないマンガの絵が、こうなると議論のためには実にいいということが分かる。
 このような絵の空間的な処理は、たぶん著者自身まだ気づいていないと思われるが、私は、手話という言語の効果だという説明もできると感じた。手話は、空間的言語である。言語は、同時に二つの存在を示すことはできない。わずかでも、時間差が生じる。一度に二つを示すことは厳密にはできない。しかし、手話はそれができる。空間的な表現なので、男女でも親子でも、同時にそこに存在するのだ。主役と脇役とも同時にそこに伝達される。マンガという空間表現でこそ何か伝えられる哲学があるのではないか、という著者の問いかけは、実はろう者は普通にネイティヴとしてそれを営んでいたのである。
 さて、内容だが、時間論・存在論・「私」とは・生命論と展開し、最後には、冒頭の問いかけにちゃんと戻ることになっている。絶望の淵にいた人が、生きる希望を見出すという設定になっていて、たいへん好感がもてる。これを福音としてぜひやってみたいという気がしてきた。
 これらの話の展開にも、不自然さはさして見られず、自然に話が深まったり、視点が変わっていったりしている。なかなかよく練られた構成である。力作だとも言えるだろう。
 私は、こうした内容から哲学の世界に入った。それは決して、人生論だね、と言われて終わるようなものではない。存在そのもの、時間とは何かという問いを促すものであった。だから、この著者が本書で追究していることは、私には実によく分かる。殆ど私の思考の痕を辿るようなものであるから、自分の轍を確認するだけで読み進める。ぱらぱらと猛烈な速さでめくっても議論や問題点は押さえているつもりだ。しかし、この問題や思考経路に初めて出会う人は、どうぞゆっくり進んで戴きたい。やたら哲学者の名前や本を持ち出して解説して、解説したつもりになっているような哲学紹介書が多い中で、ソクラテスのように、事柄そのものにこだわりつつ対話を進めていくという本書の挑戦は、大きな意味があったと言えるだろう。このことに考えを寄せて共に考えてくれる、とくに若い子どもたちが多く現れてほしいと希望する。
 そもそも、この本は、書店で見たとき、私は面白そうだと思いながらも、だいたい自分の見てきたことのようだと買わないつもりでいたのだが、十歳になった息子が、これを読んでみたいと強く言うので買ってやった次第である。つまり、息子の本となったのであり、それを本人が楽しく読んでいた。十歳には、冒頭からキツイ内容だと思ったのは、後で私がこれを読んでからである。しかしこのように、子どもが読んでみたい、とまず言ったのであって、だからまた、小中学生でも近づける哲学書だと、私は自信をもって言いたい。
 マンガだけで終わるのももったいないわけで、巻末に、著者による読書案内がある。哲学書のここに、本書に関する議論がある、という場合も多く、またそうでなくて、その問題に関する別のアプローチだということで、書評のように解説されているものも多い。それも、専門書はできるかぎり省き、新書や文庫で手に入りやすいものばかりだから畏れ入る。ちょっと、講談社新書に偏っている向きはあるが、実際この新書は、ちょっと考えてみたい視点の哲学思考の本はたくさんある。そこに確かに良い本がいろいろあるというわけだ。そうでなくても、私も改めてそういう本だったんだ、と納得したものもあり、勉強になった。家にあるものもあるが、また開いてみようかというふうにも思えたのだ。それが、本書のマンガの中のどこにどのようにリンクするか、だいたい分かるから、よほどこのマンガによる解説が、一読しただけで心に刻まれていったか、も確かである。哲学書で、このように刻まれるというのはありがたい。素早く読めるからであるかもしれない。やたら時間をかけて読むと、同じ緊張がそのように持続するわけではないから、読み方や印象の点で、また違ってくるはずだからだ。
 魅力ある本である。辛い立場に置かされている子どもにとり、素直に受け容れられない部分もあるかもしれないが、しかし何かしら光をもたらす働きはあるのではないか、と私は信頼する。哲学的ではあるが、ひとつの希望の理論だと言っておきたい。ひとりで苦しんでいる人に、光が射しこんでくることを、願わずにはいられない。




Takapan
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