本

『負けんとき』

ホンとの本

『負けんとき』
玉岡かおる
新潮文庫
\630+(上)・\710+(下)
2014.8.

 サブタイトルに「ヴォーリズ満喜子の種まく日々」とある。ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、有名な建築家であり、伝道者でもある。日本各地にヴォーリズ建築と名のつくものがあり、定評がある。文化財扱いやそれに匹敵するような扱われ方をするものが多い。ヴォーリズについては、最近も子ども向けのよい紹介が出版されており、近年注目が高まっている。しかし、その妻である一柳満喜子については、詳しくは知られていない。ちょうど、新島襄と八重子のようなもので、注目されて扱われることの少ない人であった。が、女性のはたらきに目を移すとき、これはなかなかの人なのであって、近江兄弟社学園の学園長としてなど、教育者として大きな働きをなしたことが指摘できる。
 本書は、神戸女学院という母校におるヴォーリズと満喜子の働きを知った著者が、二年間にわたり資料を集めてまとめあげて、この満喜子の生涯を描く小説である。使用せつであるから、脚色もあろう。どこまでが本当でどこまでがそうでないか、それは大河ドラマ「八重の桜」でもそうだったが、知る人にしか分からない。その点で、筋の通った読みものだ、というふうご紹介するのが適切であろうかと思う。
 ただ、描かれているキリスト者としてのスピリットは、なかなかのものである。多少なりとも日本文化に寄り添いながらも、神の声を聞き献身し、キリストを伝えるということの故に迫害を受けてもそれを守り通し、その精神で日本人を理解しついに日本人となったヴォーリズをうまく描いているように見える。満喜子もおそらくそうだろう。華族の子として生まれつつも女性の置かれた立場に疑問をもち、それでいて恋心をも大切に抱きながら、それをぶつけていくこともない。たおやかな女性の生き方をしつつも、芯のある一筋の生き方に現代性を覚えるが、それだけ満喜子の生き方は時代を超えていたのだろう。
 近江を世界のへそだと認識しながらも、仏教その他の背景で住民にきつく扱われたヴォーリズ。満喜子もまた、華族の立場を捨てて生きるも、子どもたちを育みながら、子を産んだことがないのに何ができると陰口をたたかれる。やがて戦時色が強くなる中でヴォーリズは日本人となりつつも差別を受ける二人。キリスト者であること時代で虐げられたふうには描かれていないが、多少なりともあったことだろう。ただ、私たちの抱きがちイメージとは異なり、信仰そのものが迫害されていた様子ではないのだろう。宮城遥拝や少国民のあり方を批判するための小説ではなく、あくまでも一女性として真正直に生きた満喜子が、人生の中にいろいろ不都合なことを覚えつつも、信ずるところを貫き、結果はただ待つのみという委ねた生き方を続けた様が伝わってくる。
 その文章は滑らかで、美しい。読みやすさは格別である。このあたりは作家としてさすがというべきものであろう。
 タイトルは、思うようにならない出来事の中で幾度か、様々な人物の口を通して出てくる「負けんとき」の言葉が選ばれている。もしかすると他の言葉も題になりうるのではないかとも思われるが、著者の気持ちはここに集約されるのであろう。信仰列伝ではないが、それでよいだろう。そして、種をまくというモチーフは、今自分の手で刈り取るものではないにしても、小事をこつこつとなしていくことの意味に、将来の出来事の大きな意味をもたせるということに成功している。
 初めの音楽の授業のシーンで、津田梅子といる中で、「昔主イエスの撒きたまいし」との讃美歌が流れており、満喜子が好む讃美歌だった、とある。事実上この讃美歌の歌詞はこの後三十余年の後のものであり、時代的にそぐわない。それでも、イエスの種まき、からし種のたとえを、サブタイトルに重ねて持ちだしており、この後の小説の通奏低音のように響き続けていく。
 ヴォーリズ建築は、関東大震災にも倒れなかった。その土台が並大抵のものでなかったことは、下巻の終わりにある内田樹氏の解説にもある。キリストなる岩の上に信仰が建てられているのであれば、たとえ異教の偶像であろうと、風を追うようなものであろう。人の心に偶像がある場合でも、それをおおらかに捉え、空は大きすぎてそのような小さなものなどものともしない、と断ずるあたり、器の大きさを感じさせる。
 だからこそ、天皇制が戦争を起こしたのではなく、天皇もまたひとりの気の毒の方であったのだヴォーリズは理解し、天皇自身の戦争責任を回避せ、天皇制の存続に大きな力を及ぼすこことになる。このことは、そう遠くない過去に明らかにされ、いまだ日本の多くの人には知られていないようにも思う。天皇制は、クリスチャンの手により続けられることとなったのだ、と言っても差し支えないほどなのである。
 物語は、そのあたりをも描く、そしてヴォーリズが天に帰り、満喜子もその五年後に追いかける。建築そのものは永遠に続くものではないのであるが、二人により撒かれた種は、キリストにつながっている以上は、途切れることなく命をつないでいくだろう。また、私たち後世の者が、つないでいかなければならない。
 爽やかな印象とともに、改めてヴォーリズという人、そして陰でそれを支えた妻との夫婦愛、キリスト者の生き方のひとつの実例について、いろいろ考えさせてくれる、素晴らしい小説であった。




Takapan
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