本

『幻なき民は滅ぶ』

ホンとの本

『幻なき民は滅ぶ』
D.ゼレ
山下秋子訳
新教出版社
\1456+
1990.4.

 社会運動、特に平和運動のオピニオンリーダーとして知られるという、ドロテー・ゼレ。私はある雑誌でこの人の思想に触れ、関心をもった。心に響くものをもっていると思ったからだ。本を探すと、絶版が多く、えらく高い価格がついている。その中で比較的入手しやすいものがあったので注文した。するとこれは図書館除籍図書なのだそうで、業者は一応四桁の価格を請求しておいて、厳禁還元だとかいい、その半分近くを戻してくれた。何かややこしいルール背景があるようだ。
 殆どタイトルと同一であるかのように、サブタイトルが「今、ドイツ人であることの意味」と付いている。時代は1986年、荒野の40年を数える有名な演説の頃であり、ドイツが冷戦解消へと向かう中で動こうとしている背景があった。ここでドイツとは何か、ということを考えるにあたり、ゼレは、「幻」をキーワードに、聖書の思想をこの時代の風の中で活かそうとする。その活かし方がただごとではなかった。
 ゼレは真の民主化を望む。真の自由を思い描く。聖書の中にはそういうことを幻と呼ぶ場面がある。だが、果たして幻という概念そのものが、民主化されているのだろうか。問いが始まり、そこから思索の旅が始まる。
 そこには明確な、アメリカ合衆国批判がある。ドイツはそれに追随しようとしている。世界はそれが正義だということを認めて動こうとしている。しかし、幻なき民は滅ぶという聖書の言葉が、ここに襲いかかろうとしているのではないのか。
 人を生かし、世界にいのちをもたらす幻は、まさに人を愛するというところにこそ成り立つものである。だのに、この豊かな工業社会は、死をもたらそうとしているだけのものではないのか。そこでゼレは、すでにここに戦争が始まっていること、我々が戦争の中をいま生きているにほかならないと突きつける。
 科学が軍備をつくっている。それは死をもたらすものである。聖書がいう罪とはそれではないのか。しかし、パックス・ロマーナと呼ばれたローマの平和が、実は軍事力による制圧の中にあったものであるように、現代世界でも平和とは何によるものであるのか考えてみるべきだとする。ローマ時代と同様に、次のような羅列をもって読者に挑戦を送るのだ。戦争は「防衛」と呼ばれる。国家による威嚇は「秩序」と呼ぶ。世界支配を目ざすことは「安全保障」、脅迫によって承諾を迫ることは「民主主義」と呼ばれる。まことに、私たちの現代の正義を代表するような言葉が次々と、欺瞞に満ちたものであると突きつけてくるのだ。
 また、社会的貧困の問題をも正面から問いかけ、それを蔑ろにして幻などというものはありえないと言う。社会構造が、この貧困問題を解決できないようにできている。それでは幻などあろうはずがない。日本では、貧しいなどと言いながら、スマホはもっている、などということもある。が、世界の貧困事情はそんなものではない。これを見て見ぬふりをしているような私たちは、あの傷ついた旅人を、同胞の祭司やレビ人が離れて歩いたさまを思い起こさせる。子どもたちが爆撃の中で死んだり、傷ついたり、餓死したりしているのは、ヘロデ大王が幼児を虐殺したのとどこが違うのかと怒りをぶつけてくる。
 しかし、金があればよいとするのとはまた違う。貧しい人に金を与えよ、が目的なのではない。誰もが「満たされた生」を生きるようでありたい。そのために必要なのは、確かに奇蹟である。だが、これを現実にもたらすように動き出すことを欠いては、福音書の奇蹟を信じているなどとは口が裂けても言えないだろう。貧しい人々は、実はそのことのゆえにキリストと出会っている。聖書がそれを保証している。そのことを信じるのでなくて、何が奇蹟信仰であろうか。
 このころ、アメリカ合衆国ではレーガン大統領が人気であり、強い反共主義が表に出ていたが、これを平気で、ナチの反ユダヤ主義と同一視できるのは、ゼレならではであるかもしれない。敵のいない平和な世界をつくりだすには、敵をつくり、潰さなければならないのだ。その敵という存在のために、互いに都合の悪いことは忘れられ、腹にあるものに利益がわたるように、団結して敵に勝つ活力が求められる。
 しかし忘れてはならない。私たちはいとも簡単に、かつて猛反省したことをも、忘れてしまうのだ。ドイツがそうだとゼレは危惧する。いや、日本も差異はないだろう。戦争を知らない世代が多くなるにつれ、かつての精神や背景は忘れ去られ、歴史を踏まえぬ正義が走り出す。そして、戦争を知っていた人々までもが、あのとき自分はそこにいなかったなどと言い始め、責任回避を、さも真実を自分が言っているかのような錯覚に支配されながら、全うするのである。
 しかしこればかり叫ぶと、ただの社会運動家でしかない。聖書的・信仰的な基盤で力強く主張できるものでなければならない。幻というキーワードでこの時代を批判してきたゼレは、神との出会い、神との距離の近さが、幻には必要だと告げる。私はいま神と共にいるのか。この自身への問いかけを神学的に検討しながら、本書は終盤へ向かう。私たちは、現状しかありえないと諦めてはならない。社会は変えられるという思い、しかしながら自分の声や行動はそのためにはあまりに小さく無力であるという悲しみも同時にもちながら、これは無意味な極小の幻では決してない。しかしまた、決して刃を私に向けないからと言って、安全な正義の者だという錯覚をも著者は戒める。私たちがこの無力に勇気が挫かれていくとき、実は危険なのであって、このときの世界事情がその危険の中にあったとするのである。
 しかし幻がある限り、世界は分裂しない。ドイツのように分断されることもない。ゼレは、古代ギリシア風に「善く生きる」ことがこの社会で原理となることを望んでいるように見える。この幻を、著者や訳者と共に、読書たる私たちも、分かち合うようにはなれないものだろうか。




Takapan
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