本

『ラッキーガール』

ホンとの本

『ラッキーガール』
佐藤真海
集英社文庫
\450+
2014.3.

 2004年に発行された本が元であるが、文庫のほうが今となってはいい。というのは、2013年9月、東京オリンピック・パラリンピック招致委員会プレゼンターとしてのスピーチの原稿と、こうしたその後を踏まえての「文庫化によせて」の前文があるからだ。
 その招致スピーチで一躍脚光を浴びた方だが、そのときの笑顔が印象的で、明るく前向きだという、確かに招致委員として適役であったことは間違いない。だが本当にそれでよいのだろうか。
 まず、パラリンピックという言葉は、その後の報道において、省かれることが多い。佐藤さんの願いや考えは、パラリンピックもオリンピックも、アスリートの場として同じだとするものなのかもしれないから、もしかすると、オリンピックという名で代表されてそれでも差し支えないのかもしれないが、世間で用いられるときには、パラリンピックのことは多分に忘れ去られている。面倒でも、略してはいけないものだと、障碍を追った側ではない者としては思っていたいのだ。
 次に、笑顔の向こうにどれほどの悲しみと落胆と、こういう言い方をしてよいかは本人からは不本意かもしれないが、不自由があるか、計り知れない点だ。どうしてあんな笑顔が出るのか、それは楽天的でケロリとしているからではないはずなのだ。それを忘れてしまうというのも、冷たいものだと思う。
 とはいえ、気の毒だとか、可哀想にとかいう思いが望ましいのではないことは明らかだ。背が高いあるいは低いとか、肌の色が黒いあるいは白いとか、そうした違いのカテゴリーであるかのように、義足であるあるいはそうでないとかいう事態が捉えられたらよいような気がしてならない。
 だがそれも、人により考えが違うかもしれない。障碍を十把一絡げにまとめて評するようなことがよいのでもあるまい。ひとりひとりが、人として尊重されること、だから不都合がある人についてはそうでない人が助けたり補ったり、それぞれができることを全うするように協力できることがよいのではないか、とも考える。
 いやいや、こういうことも、簡単には言えないかもしれない。
 だから、理解することがまずは必要である。
 それで、この人にとっての文庫が出たというので、読ませて戴いた。読んでよかった。この著書の後にも、二冊分かりやすい本を著しているとのことだが、最初の経緯や若いときのその思いがそのままに書かれているという点で、この本の意義は大きい。本人も、読み返すと恥ずかしい点があるだろうと思うが、その時に感じたもの、見ていた景色についての記録は正直である。その視点が、成熟した後に振り返るだけで記述されるよりも、適切であるという場面はきっとある。
 水泳やチアリーダーなど、体を動かすことが好きだったこと。早稲田を目指したときの、思い立つといてもたってもいられない性格など、飾ることなく表されている。その思いが、大学で発症して足を切断しなければならなくなったとき、その後の歩みの中にも、生きているように感じられる。それは、ありのままをぶつけた文章から窺えることなのだ。
 自分のことを「ラッキーガール」だと呼んでいる。確かに、ついてくる成果は、並の人に簡単に与えられるような結果ではない。それはまた、選ばれた人であるという意味でもあるかもしれない。「日本を立て直す100人」に、ある雑誌が選んだというが、こういう明るさと前向きな姿勢を見て、己を恥ずかしく思うような良心と自己評価を、私たちすべてが抱くべきではないか、というように感じる。
 自分を「ラッキー」だと捉えるのは、生き方として適切だ。「よかったさがし」ではないが、それができるのは、ある意味でどん底を知っている者であるのかもしれない。しかも、そのどん底から絶望の谷に堕ちていかなかった人である。そこをクリアすれば、誰にでもチャンスはある。
 確かに障害者としては、恵まれた環境にあることは事実である。だが、学ぶべきことはたくさんある。元気をもらう本でもある。易しい言葉が使われているので、小学生でも高学年ならば十分読める。将来的には、国語の教科書にも載せられるかもしれない。実際、他の著者が中学の教科書で採用されているという。他方、この文庫だと、大人向けという印象を与える。それだけに、大人ももちろんだが、子どもたちにも読みやすい形でこの本が提供されていけばよいと願う。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります