『愛 聖書における愛の研究』
レオン・モリス
佐々木勝彦・茂泉昭男・住谷真・関川泰寛・西間木一衛訳
教文館
\3398+
1989.4.
加藤常昭先生の本で困ることは、そこにたくさんの本が登場することである。どれも魅力的に宣伝されているため、読みたくなってしまうのである。なにげない小説やエッセイでも、お堅い神学書でも、そうである。
本書もその一冊であるが、珍しく、加藤先生はこれを褒めながらも、自分は少し違う意見をもっている、という但し書きをしていた。だが、読み方まで加藤先生に倣う必要はない。とにかくこれは、良い本なのだ、という前提で探す。35年以上前の本なので、古書から探すしかなかった。いつも頼りにしているAmazonでは、相場が高すぎた。さすがに高いものは、手が出ない。そこへ、「日本の古本屋」というサイトがあることを知り、訪ねたら、まだ買える価格で出ていた。届くと、実にきれいな本であった。明らかに、掘り出し物であった。
A5サイズのハードカバー、そして450頁を超える分量である。読み応えがあった。その昔の本は、載せられるものは何でも載せている。聖句索引や人名、事項の索引も充実しているが、やはり特筆すべきは、その「註」である。なんと133頁ある。本文を1日10頁読むと決めていても、その3分の1の「註」をぱらぱらと開き直さなければならない。そのため、「註」の頁にも、栞と、開きやすいように附箋を貼っておくことになった。
原著の発行が1981年であるから、翻訳は比較的早い段階で成立している。神学書として特に学会に貢献したものではないかもしれないが、一般読者には味わい深い内容であろう。というのは、聖書の中にある「愛」という語について、実に細かい指摘を繰り返しているからである。
確かに、日本語で「愛」と言っても、様々である。特に、キリスト教が及ぶ以前は、「愛」という言葉はむしろ「執着」の意味で、好ましいものとは見られていなかった。さすがにその辺りのことは、本書では触れられていないし、触れられるはずもないのだが、日本人にとっては、ひとつ弁えておかねばならないことであろう。英語でも「love」としか言えないならば、内容は実に多様であるはずである。
しかし、ギリシア語では、つまり新約聖書の中では、いくつもの原語が異なる様相で使われている。agapeの愛、これこそ新約聖書の中心概念であると言ってよい。神が人を愛する愛を強調するときに使われている。この件については、1930年代に発表されたニーグレンの研究がとみに有名である。いまなお倫理の教科書で定番のように記されている、そのerosとの対比は、聖書の公式のようにすら見られているものである。だが、必ずしもそのように明確に分かれるわけではない。本書も、その点は理解している。明確に線引きができると片づけるようなことはしていない。ただ、概ねその受け止め方を尊重していることは間違いない。
しかし「愛」を示す語は、聖書の中には他にも多々ある。また、実のところerosは使われていない。あくまでもギリシア思想や文化の中で捉えられていたerosとの対比が研究されたのである。そこで本書では、聖書に実際に使われている。「愛」を示す語が細かく検討されることになる。それにしても、いったい「愛」は、どのように整理すれば、それなりの引き出しの区分けができるのだろうか。それは途方もない仕事のように思われるが、それをやり遂げたというところに、本書の意義があると言えよう。
だから、たとえば「人間の愛」とはどのようなものか、聖書における観点をはっきりさせておく必要がある。そこには契約という考え方もあるのか。時に、結納金という理解の仕方が有効な場合もあるのではないか。七十人訳聖書ではどうなっているか。そこには案外、「神の愛」には言及していない、ということも著者は指摘する。しかし七十人訳聖書は、ギリシア語で書かれてある故に、そして新約聖書を書いた人間たちが、そこから情報を得ているが故に、注目しなけれけばならない、とも言う。
もちろん本書では、ギリシア語のみならず、ヘブライ語における「愛」も随時交えてくるから、思索の厚みが増していると言える。
関心は、次第に「神の愛」に移る。新約聖書のたとえについても細かく検討をし、神の愛がどのように捉えられ、表現されているか、事細かく言及するのである。他方、私たち人間にしてみれば、「友愛」という考え方も重要である。そのとき、「友」という感覚に制限されず、「隣人」として人間一般に対する「愛」についても考察されなくてはならない。ヘブライ語では、隣人たるものを友として扱うような感覚があるというため、キリスト教が隣人愛を掲げるとき、ヘブライ文化というものに対する弁えというものが必要になる場合があるだろう。
しかし、では人を愛することが、神に愛されるために必要なのだろうか。著者はそれを肯定はしない。神が愛した、だから私たちは人を愛する。方向性としては、それはそれでよいに違いない。しかし、これは時間順であったり、原因結果の秩序であったりするように決める必要はないだろう。イエスは、一番大切に戒めを二つ掲げた。神を愛すること、そして人を愛すること。これは、実のところ一体であることを示しているのではないだろうか。
著者は、人間的な愛を、愛の当然の姿のように思い違いをするな、ということを戒めとしているように見える。そして、神の愛と人の愛とは一体である側面があることを、人間の側では十分覚りながらも、結局のところ、神の愛が究極であること、初めであることから、ブレることはないだろうというように見える。そして、もしかすると少しばかり飛躍した結論の出し方をしていたかもしれないが、著者は、神の愛は十字架である、と断言する。十字架を私たちは見上げなければならない。それは神の愛そのものである。
こうして、神学論文は、信仰のエッセンスを輝かせるような終わり方をする。ここまで、実に長い長い説教であったのかもしれない。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド