本

『失われた時を求めて 全一冊』

ホンとの本

『失われた時を求めて 全一冊』
マルセル・プルースト
角田光代・芳川泰久編訳
新潮社
\2300+
2015.5.

 新潮モダンクラシックスと題したシリーズのようだが、ずいぶんと分厚い本である。500頁を超えるものだが、どうやら原作からすれば、これは1割程度の量なのだという。大部の著作であり、近寄りがたいものをもっていたのだが、あるきっかけがあり、図書館で借りて読んでみようという気になった。
 難儀した。やはり、縮約版なので、もっとゆったりした空間で知るべき場所が略され、話がどこかとびとびになっているとすれば、これで初めて読む者としては、理解の難しいところがあるのではないと思う。
 だが、もちろん訳者たちは、そういうことが起こらぬよう、綿密な計画と読み込みによって訳出して編集している。ほんとうに頭が下がる思いだ。読み進む上で必要な点を拾っておかなければならないために、数行だけの部分をつなぎに使うなどもしたらしい。これはやくまでも訳なので、本文にない説明を付け加えるような真似だけはしたくないと思ったということだ。
 イメージ的には、何かもっと勇ましいものなのかと思い込んでいたが、どうやら源氏物語ではないにしろ、何かそういう、恋愛事情と心理的に鎌の掛け合いのような連続で、いやに心理描写がしつこいというふうにも感じられた。
 だが、文学を味わう能力に乏しい私のことである。これだけの重厚な文学が受け継がれているということに、人類の文化の誇りを見ておくことにしたい。観光地の建物の意味が分からないにしても、すばらしいと見上げているような気分である。
 私が唯一、心がぐっと流れ入ったのは、「不揃いな敷石」の末尾の部分である。名前を明かさない「ぼく」の思いであるが、超時間的なものを、この本が描いているようなものだが、それは現在も過去も一つとなったいまこのとき、事物の本質を享受できるのだと言っている。これを、「時間の外に出たとき」と称している。そのとき、死への不安がやんだという。自分が超時間的な存在となり、未来に待ち受ける苦難が気にならなくなったというのだ。事物の本質というものは、現在においてつかまえることはできない。想像力は作動することができないのである。現在のこの行動においてでなく、また本質を想像力のようなもので把握したときでもなく、過去と現在とが一つとなった現在、実のところ現在から逃れる自由を得るのであり、内なる自分が現れるのだという。失われたはずのあの時も、よみがえらせてくれる存在だ。やたら記憶だの知性だのを要するものではない。こうしたことを「ぼく」は悟り、時間を超越した安心を得るのである。
 時についての切ない思いは、生きて生活することについて何ら不安を抱く必要のない、この主人公の恵まれた生活の中で、ただ時への不安や未知の思いとしてつきまとっていたのだが、目の前の衣食住に囚われない、精神の本来のはたらきともいうべきところで、ひたすら時間とは何かを問い続けていた。作品中にもよく出てくる「スノビズム」とは、俗物でありつつ貴族ぶることだが、そのあたりが、妙に私の心に響くのであった。




Takapan
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