『リトル・トリー(普及版)』
フォレスト・カーター
和田穹男訳
めるくまーる
\1000+
2001.11.
非常によく読まれた本であることは知っていた。機会を失った、とでも言い訳しておくことにするが、2024年になって初めて読むこととなった。入手しやすい価格で書店の棚にあったからである。
インディアンの少年の物語である。ただし、「チェロキー」と呼ばれる、アメリカ南東部の森林インディアンであるという。それは、著者の自伝そのものではないにせよ、それを重ねて描かれた物語となっているという。作家活動は、著者の急死によりそう長くはもてなかったが、人の心に残る作品がこうして作られたことになる。
この「インディアン」という呼び方は、歴史的な問題もあり、今は使わないことが社会的に了解されている。昔は、「西部劇」と称して、そのインディアンをやっつける白人の映画やドラマが、平然とテレビや映画で放送されていたのだが、その後もう放送できなくなった。本書の訳者は、著者自身が使っていることから、この訳語を用いた、と説明している。
リトル・トリーと呼ばれたこの少年は、物語では基本的に6歳である。その目で見たことを説明しているということになるが、あまりに描写が大人びてもいる。だが、物語の語り手として、いまは大人になっているのだから、それでよいはずである。大人たちの姿も、子どもの視点で描かれているのも特徴的だが、なんといってもその豊かな自然描写が美しい。訳者もずいぶん苦労したそうである。というのは、英語で書かれてはいるが、インディアンの言葉が混じる中、その視線に収まる自然の様々な描写は、より一層訳出に困難をもたらすからである。
少年は両親を喪い、山に暮らすインディアンの祖父母に引き取られる。様々な自然体験の中でたくましく育ってゆく。教会にも通うが、祖父とて聖書のことが分かっているわけではない。途中で、とんでもない理解をしていることが明らかになる場面があるが、聖書を知る者が読めば噴き出しそうになるくらいの誤解である。案外、聖書を読めないということは、そういうものなのかもしれない。
ただ、その教会というところに所属するはずの白人たちが突然訪れる。ウイスキーをつくる祖父を騙して、金や財産を巻き上げようとするのだ。それに気づき、抵抗するのだが、こうしたことから、少年は孤児院に「合法的に」連れ去られることになる。
そこで、自然に覚えた動物のことを授業で発表したところ、白人の教師と学校は、とんでもない仕打ちを少年に課す。ついに少年は祖父母の許に戻ることができるのであるが、物語の結末は、なんとも切ない。
殊更に白人を非難する意図は見られない。むしろ、ありのままに体験したことや見聞きしたことを描いているに過ぎないであろう。だが、かなり厳しく描かれている印象を受ける、それほどに、白人のインディアンに対する言動は酷かったのだ。それが、あの西部劇の常識であった。そういう時代なのであった。
これが、白人文化の中でよく読まれた、ということが、私にはまだよいことであるように思われた。それとも、やはり社会に受け容れられてゆくまでに、いろいろあったのだろうか。そこまでは私は知らない。
英語文化の中に置かれているとはいえ、インディアンの言い伝えや文化も随所に見られる。祖母が、「だれでも二つの心を持ってる」というとき、そのひとつは「からだの心」だと言った。「からだを生かすための心を使わなくちゃならない」のだそうだ。もうひとつは「霊の心」であり、からだを守る心を悪いほうに使うとそれは縮んでしまうのだそうだ。また、同じ言葉でも、その時どきに応じて、違う意味で互いに応答するところなども、きっとそうした「心」を研ぎ澄ませているところから生まれることではないか、と感じた。
また、クリスチャンに騙されまいと知恵を用いたことは先に触れたが、教会や牧師などが如何に宗教を「窮屈なものにしている」か、という辺りの描写もあったし、天国の門を自分が管理しているつもりになっている牧師の姿についても、そう見えることはあるのだろう、というふうに思えた。16章の「教会の人々」というところは、キリスト教会の中で、ぜひ読むべきだというのが、私の読後感だ。
最初、子ども向けの本だろうかと見ていたが、やはりこれは大人のための物語である。1925年生まれの著者が、その半世紀の生涯の中で大切に胸に抱いていたものを、ここに遺してくれたことに、感謝したい。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド