本

『人生の短さについて』

ホンとの本

『人生の短さについて』
セネカ
浦谷計子訳
PHP研究書
\1300+
2009.3.

 セネカの名著。イエス・キリストと同じ頃に生まれた思想家である。ストア派の思想を主眼とし、非常に真面目な人生観を呈していた。政治家として有能であったといわれ、それ故つまり当時としては弁論に長けていたということになる。しかし政治的なスキャンダルに巻き込まれて一時流刑を経験するが、これが執筆の源となった。政界への復帰を果たすと、やがてネロの教育を担当したが、結局このネロの暗殺に関わった廉で死なねばならなくなった。果たしてこの暗殺未遂の真実はどうかということはよく分かっていないという。
 妻の父親ではないかとも言われているが、パウリヌスという人物に宛てた手紙ということになっている。タイトルを付けられているとおりに、人生は短いというテーマに沿って、それなりの長さをもっているために、様々な話題に触れている。思いの丈を綴ったというふうに捉えてよいかと思う。
 もちろん、人生は短いから空しいなどと言おうとしているのではない。何を大切にするべきかを考えよというのである。というのも、このパウリヌス、更迭の憂き目に遭ったようで、セネカはそれを不幸ととらず、むしろ自分のために残された時間を大切に用いるようにと勧める形をとっているようなのだ。
 いったい私たちは、どうして毎日、時間がない、とぼやいているのだろうか。満たされないことのために時間を奪われているのではないか。さらに、時間がない、と呟く人に限り、くだらないことのために時間を浪費しているというのが、ありがちな姿ではないだろうか。もちろん、他人から時間を奪われるということもある。必要のない仕事のために自分を犠牲にしているようなところもあるだろう。落ち着いて考えてみたまえ。思索を求めよ。しかしそれはあれこれ考えて悩むということではない。「過去を忘れ、現在を無視し、未来を恐れる者にあるのは、きわめて短い、不安だらけの人生です。」
 本書は、見開きの左側の頁だけを続けて読んで行けば、本文が全部読めるようになっている。ゆったりと、小さなまとまり、数段落だけが余白たっぷりに左頁に集められている。そして右側には、その箇所の中で特に訳者が際立たせたいと思った部分たけを抜粋している。従って、右側の頁ばかりを拾っていくと、ダイジェストのように教えのエッセンスが辿れるようになっているとも言える。
 良い企画だとも思えるが、これが案外、読むときにはやや不便を覚える。さて、どちらから先に読めばよいだろうか、ということだ。普通なら右側を見るが、通例左側だけが続けて流れるわけで、ぷつぷつと話の流れが分断されてしまうのである。短い標題ならば見出しとしてそれを「見る」ことにより読書の助けになることがあるが、一文が抜いてあると、その一文の意味をどうしても読み取ろうとしてしまい、「読む」ことをしてしまうので、意識が一旦話の流れから外れてしまうのである。そしてまた本文に戻ると、前の頁からどう続くんだったっけ、と記憶を回復しなければならず、時にそれを忘れてまためくり返すようなことになってしまう。案外読みにくいのである。私は終いには、左側ばかりをどんどん読んでいくようにした。右のピックアップをまるで見ないようにしたほうが、記述がスムーズに流れることは間違いない。
 最後に、訳者の解説があったが、そのまた最後に、自分はラテン語がまるっきり分からないから英訳を訳した、と書いてあるのを見て、こけそうになった。なんだと、と思った。今どこそりゃあないよ、と思った。翻訳の翻訳であり、又聞きだったのだ。「まえがき」にもただ「全訳」としか書いてなく、最後の最後になって英語ですよ、とバラされるというからくりであった。しかも、幾つかの英訳を参照した、などとも書いてある。なおさらそれでは折衷されているわけで、しかも原典は一切関わることなくなされているわけだから、訳者の思いこみでどんどんずれている可能性があるではないか。これは、明かされているとはいえ、詐欺に近い。
 確かに訳文はこなれていると思うが、時折分かりにくいような気がすることもある。それは、古典を今様の理解で説明してしまうときによく起こることである。今の常識で言葉をつなぐと、過去の文化的背景には合わなくなってしまうのだ。たとえば最後の箇所の注釈で子どもの葬儀のことが説明されており、本文では子どもが火葬されると読めるようになっていた。しかし調べてみると、当時子どもを火葬することはなかったふうでもあるのだった。ラテン語からの他の翻訳だとそこには火葬という言葉はない。セネカが直接的にその言葉を使っていないからだろう。ついでにそれと見比べてみると、他の読みにくかったところでも随分と趣の違う文になっていて、そのどれもが、ラテン語からのほうが、辻褄の合う訳し方になっていると思えた。
 何を訳しているのかの明記は大切だ。もし聖書を、英語訳聖書を訳しただけで世に出したら、とんでもないことになるだろう。だからどうぞ、ラテン語訳からお読みになることをお薦めする。




Takapan
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