本

『いのちにつながるコミュニケーション』

ホンとの本

『いのちにつながるコミュニケーション』
富坂キリスト教センター編
いのちのことば社
\1800+
2021.3.

 これは心のこもった本である。
 内容に単純に同調できない人もいるだろう。きれい事だと言う人もいるに違いない。だが、これは心のこもった本である。
 サブタイトルは「和解の祝福を生きる」という。これは販売的にどれほどウリになるかどうか難しい。但しそこはいのちのことば社、キリスト教を知る人にはどういう書店か分かっている。だが一般に「和解の祝福」ときても難しい。それで本の帯が活躍する。「日常生活の中で関係性に悩んでいる人、相手に思いが伝わらずに困惑している人、自分自身のことがわからなくなってしまった人におくる一冊。」という言葉が心に響く人は、きっといる。
 平和な人間関係を築きたいという思い、理解されたい、大切にされたい、という願いは、多くの人にある。だが、それが実際に自分に起こっていると言える人は幸いである。これに対して、ドイツとのつながりのある団体である富坂キリスト教センターの6人の著者が、それぞれの持ち味を活かして語る本となっている。「人間関係とコミュニケーション」研究会というのだそうである。
 そこには、独特の方法があり、NVCというものであることが最初に紹介されている。「非暴力コミュニケーション」であり、その意味する所は「思いやりのコミュニケーション」ということであるという。そこでは「言葉の使い方」が鍵になっているという。本書の構成は、ずっと読み進むとややぎこちない展開を覚えるのだが、その底流にあるのが確かにこの「言葉」ということとの関わりであり、信頼であるのは確かに感じる。それは、ことばとしてのイエス・キリストに、あるいは天地創造を言葉でなした神に、根拠をもつであろうことは、容易に想像できるであろう。
 個人的には、最初のケーススタディで、本書を手にとる価値が十分にあったと評価している。「日常のコミュニケーション」として、実例としての心で苦しいと思える場合の物語が幾つも用意される。それに対して、どう考えればよいのかというコメントのようなものが添えられているという構成である。それは、安易に聖書の言葉を持ち出して解決できるというようなものではない。生きている肉としての人間が、どんな痛みを覚えているのかに十分寄り添ったものであると言える。そうした現場での生きづらさのようなものを十分理解できるものとした上で、そのケースにとり何が良くなかったのか、あるいは何が良かったのか、それを見出していく。読むだけで、どこかで自分の心のちくちくしたものと関わってくることを、感じない人はきっといないだろう。
 時折、聖書の解説も入る。聖書の中で「わたし」と「あなた」の関わり、それから「わたしたち」というあり方について考えさせるところは、有名な聖書箇所を繙きながら、そこに読者が自分自身を見出し、さらに自分と神との関係に気づくというようなプロセスが用意されているように感じた。そのときキリストは、あなたはあなたでよいのだと告げるという。心に苦しみを抱えた人には、このようなメッセージが助けとなってほしいと願わざるを得ない。
 ということは、これは聖書の話を知る人を対象にしているというべきだろうと思われる。もちろん聖書を知らない人に向けて、聖書がこのようなものを含んでいることを紹介した上で、ついには「和解」という解決へ道へ導くものであってもよいはずなのであるが、聖書を知る人にこそへのメッセージであるように私には見える。聖書にはこのように、人の心を癒す働きがあるのだ、神はこのようにあなたを助けるべく言葉を用意していたのだ、というかのように。
 だとすると、聖書を読み、教会に通うその人の心の中にこそ、問題があるのだということになる。なにを当たり前のことを今さらに、と仰るかもしれないが、一般に、教会に来て悩んでいるなどという素振りを見せてはならない、というような空気が、教会にはありがちである。牧師が毎週「福音」を語っている。そして「信仰」を説いている。それを聞く者が、心を病んでいるなどとなると、不信仰であるかのように見えてしまうから、表に出すことがない、そうではないだろうか。
 しかし、教会でこそ、悩むことはある。教会が神の国の出張所のようなものとしてこの世にあるとするからこそ、期待すべきことがあり、また何らかの権威があると見られることから、こんなはずではなかった、という思いが沸き起こるものである。
 その点、本書はまだ、教会をどこか桃源郷のような描き方で見せているのかもしれない。そうではないだろう、ということはまた次の課題になるだろうか。但し、本書でも最初のケーススタディにおいて、教会における不都合な例も紹介されている。教会のオルガニストが、ミスをすることを気にする中で、ついには教会に来なくなった、というストーリーである。また、外国人の信仰者が日本に来て教会に来たときに、低く見られるような気がしてトラブルが起こるというような事例もあった。やや訳ありの人が教会に来たときに、その異質な人を教会が受け容れないようなあり方の問題もあった。恐らくこうした事例は、実際に教会の中で見られたものではなかっただろうかと推察するのだが、本書はこうしたケースを、すべて心の持ちようによって解決しようとしている。それが本書の使命であるからなのだが、実際にこうしたことは多々起こるであろうし、それが心だけで解決されるのかどうかは疑問である。教会組織としてどう対応するか、教会自体に何かもっと原因たるものがあるのではないか、そこを追及するべきではないかと思えてならないのだ。教会での話し合いの風景も、見事なファシリテーターが現われることでうまく進むようなストーリーがあるくらいで、そんなにうまくいくものなのだろうかという気がどうしてもすることを止めることができるだろうか。
 最後に先のNVCが紹介されている。心理学的なカリキュラムのようなもので、具体的な方法や項目が多々挙げられている。本書の「方法」である故の紹介であろうが、かなり抽象的で、ここにある数頁で理解が行き届くようには思えなかった。私も、ピンとこないのだった。これはまたこれだけの解説に的を絞った一冊が求められるところだ。
 やはり、これは一つのきれい事である。だが、きれい事を見ないふりをしたところで、何の良いことがあろうか。本書はたとえば最後のところで、「人生の意味」について、こんなことを述べている。「人生の意味」は、「私たちがそれを追い求めるのに先立って、すでに、今、ここに、人生のほうから送り届けられているのだから、私たち人間は、生きる意味があるか否かを問う必要はない」のだ。むしろ「様々な局面においてその都度、「人生から問われていること」に全力で応答していくこと」が必要なのだ、と。それがあれば、闇のような現実に立っていても、そこに生きる基盤と希望の光を見出すことができるであろう、というのである。どこまでも美しい語りではあるが、やはりこれはひとつ心得ておかなければならないだろうとは思う。これは、やはり心のこもった本なのである。




Takapan
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