本

『教養としてのラテン語の授業』

ホンとの本

『教養としてのラテン語の授業』
ハン・ドンイル
本村凌二監訳・岡崎暢子訳
ダイヤモンド社
\1800+
2022.9.

 これは凄い本である。そして、タイトルを裏切る素晴らしさに満ちている。ラテン語を教えてくれる本ではないのである。だが、信仰と愛に溢れているため、キリスト者はぜひ読んで戴きたいと願う本である。
 さらに、大学に入学した若者の、助けとなること必定という本である。
 ダイヤモンド社という、ビジネス畑の出版社からの発行であるだけに、宣伝がうまい。著者のハン・ドンイル氏の肩書きに「バチカン裁判所・弁護士」と、目を惹く文字をはっきり見せている。本のサブタイトルは「古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流」と、これまた気をそそるような言葉。そして帯には「歴史、哲学、宗教がわかる! 世界最高の教養」と大きな文字で訴え、「若松英輔絶賛!」と畳みかける。その他、世界的ベストセラーという朱文字も目立つ。
 いやいや、宣伝の上手さを称えても仕方がない。本書は内容が、本当によいのである。大学でラテン語を教えるその語り口が、28章にわたって繰り広げられる。ラテン語の名句がタイトルになっていることが多いが、そうでなくても、ラテン語で示してある。だが、ラテン語をこの本で教えようという空気は感じられない。ラテン語の活用表が一度載せられているが、それは活用というものを読者に知らせるためであり、それを覚えよとか学べとかいうわけではない。ラテン語そのものの解説もごく僅かである。
 それよりも、帯にも合ったように、歴史・哲学・宗教が説かれる。いや、広く「文化」と言ったほうがよいかもしれない。そして、結局のところ「人生」が語られている、と言っておきたい。
 自身の生い立ちや経験がふんだんに出てくる。そこからあふれる正直な感情の吐露、しかし人の生き方としての知恵にそれが必ず結びつけられていく。また、大学初年度学生向けだと私は捉えたが、大学で学ぶということ、学問をするということ、自分を見つめ、知るということ、そうしたことへの、愛情溢れる眼差しがひしひしと伝わってくるのである。
 著者はキリスト者である。韓国のカトリック信徒である。東アジア初の、バチカン裁判所の弁護士であるという。大学院での教会法学博士号は最優秀で取得したと紹介されている。ラテン語のその講義は一般人も聴講に加わり、名講義と評判だったという。確かにそうだと思う。本書に触れたら、その魅力に取り憑かれること必定である。学問を愛し、文化に敬意を払い、人を愛することについて真摯に問う人ならば、本書から必ず何かを与えられるはずである。私はそう思う。
 発作を起こして死に瀕したこともあるという。その時に人々に助けられたこと、体の不安のためにできなかったこともあるが、神に導かれて立たせられているということ、それも実に謙虚に語られ、読む中で多くの感動を与えられた。
 宗教についてだが、他の宗教を軽視するようなことはない。アレクサンドリアの女性数学者ヒュパティアにも言及されている。キリスト教徒によって残虐な殺され方をした人であるが、その章では宗教の自由について深い洞察が試みられている。哲学や倫理、宗教というものについて、神を目の前に置きながら、問い続けることの大切さを説くこの「たとえ神がいなくても」の章は圧巻である。
 ラテン語を用いながら、ローマ文化をただ紹介するのでもなく、常に現代の私たちの生き方に及ぶ思考をもちかける。そして現代文明を問い、その中にいる私たち自身への問いを促す。祖国韓国について、些か謙虚すぎる叙述が多いものの、韓国の中の良心というものを教えられるような気持ちで読み進むことができた。日本人が、時に日本人を恥じるような見解をもつが、韓国の人も同様なのだ。聖書を押しつけるようなこともなく、むしろ聖書をいまここで生かすための、寛い愛の形で熟させているような語りかけがたっぷりと味わえる。私には、むしろその方が、神の愛に酔うことができるような気がしてならない。
 教会のドグマや仲良し倶楽部感覚に染まっている、リベラルを自称する一部のクリスチャンが誠実に読めば、改めて自分を見つめることができるかもしれない。自分を変えてもらえるかもしれない。著者を英雄視はしないつもりだが、その言葉が与えられて、何か新しい景色が見えるようにしてもらえることは、大いに期待できるのではないか。自分は正しい、と豪語するタイプの方の心に、新たな風をもたらす本が現れたことは、一つの福音であるに違いない。




Takapan
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