本

『あらためて教養とは』

ホンとの本

『あらためて教養とは』
村上陽一郎
新潮文庫
\539
2009.4

 クリスチャンの教養人として名高い村上氏は、科学哲学を中心に、科学論を展開する学者であり、また著述家である。こうした人が、自分の思索の出所を公開するというのは、珍しいことであり、貴重である。
 そもそも、自分の書くことについての背景を暴露するようなもので、恥ずかしいことだと考えるのではないかと思う。自分の裸を見せるようなものに感じるものである。また、その程度の勉強なのかと知識の貧しさをあからさまにすることでもあるし、他方、逆に自慢するように聞こえるかもしれないという懸念もあるだろう。
 五年前に、NTT出版より『やりなおし教養講座』と題して出版されたものの文庫化である。現在も出ている単行本であるから、他社から文庫として出るというのは、痛いことであるかもしれないが、この辺りも村上氏ゆえのなせる業なのだろうか。五年ほどの時代はこのような教養については古びさせることがない。なにせ村上氏が若き日に、どのような本を読んで知識を身につけていったか、どんな知的な経験をしてきたか、の回想である。若い人々は見習う必要は確かにあるだろうと思う。
 もちろん、村上氏と同じ環境にあるわけではないから、そのどれもを真似する必要はないだろう。時代的なことも十分伝えながら、この本では若き日の読書を公開している。
 しかし、前半では、「そもそも」教養とはどういうことなのか、という持論を展開している。いや、これは単なる持論ではなく、歴史上の事実でもある。かつての大学はどのように成立していたのかということと、古典をどう昔の人は理解していたのか、そしてやがてその教養を、ドイツ語の「建てる」というニュアンスの語の中に描いていく。
 近年流行りの、「品格」ということにも通じるだろうか。人格や品格といった「格」というものは、成金趣味では出来上がるものではない。また、出自に決定されるものでもない。謙虚に学ぶことによって、内面に形づくっていくものである。それが、その人物を形成する。造り上げていく。そこに、教養の真の姿を見る。自らを律する能力、自らに規矩を与える能力として捉えられた教養について、筆者はブレることなく言葉を連ねていく。
 かと言って、お高くとまった本ではない。特に、最後の「教養のためのしてはならない百箇条」は、笑わせる。これは、たんにオヤジの嘆きであり、こだわりである。これは個人的な規律であって、万人に簡単に規定できるものではない。しかしその具体的な様子が、非常に筆者を身近に感じさせる魅力を有している。
 前半と後半とで空気を変えた楽しみ方のできる本である。「教養」の意味、その「規矩」による理解、それを学びつつ、読者も自分のあり方をいまいちど考えてみる機会としてみたら如何だろうか。前半に時折見られる語源へのこだわりなど、筆者の思い入れにも触れることができて、私は最初から最後まで実に愉快に読むことができた。私に合った世界であったかもしれない。理性と教養が邪魔をする、という言葉の真意も、思わず笑いながら受け止めた次第である。




Takapan
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