『聖書教理がわかる94章』
J.I.パッカー
篠原明訳
いのちのことば社
\2100
2012.10.
サブタイトルに「キリスト教神学入門」とある。このようなサブタイトルや内容をもつ本は、世にたくさんあると言える。
ここにあるのは、読みやすく理解も穏健な、信徒に役立つ解説である。著者は聖公会に属するというのが、長老教会で重んじる、プロテスタントのウェストミンスター信仰告白をうまく利用している。それは、聖公会の伝統を受け継いだ形で、宗教改革の中で結んだ実であるからだ、と著者はまえがきで告げている。また、訳者の解説によると、そこにはピューリタンの伝統も加わっているというから、一般のプロテスタント信徒が学習して、まあ間違いのないところであると言えるだろう。
原書は「コンサイス神学」というらしく、あまりに詳細にこだわったり専門的になりすぎたりせず、それでいて要点を外すことのない、やはり信徒の学びには相応しいところを意図してまとめられたものであろうと思われる。
先に紹介した『よくわかる教理と信仰生活』とは違い、特定の教理問答を掲げてその解説をする、というものではない。従って、この著者独自の配置や項目が挙げられてくるということになるのだが、それはまた、現代の生活に密着したアドバイスとなる強みももっていると言えるだろう。残念ながらここには図解ではない。すべては言葉による記述である。教会で使われる言葉、その礼拝や行事で扱われる内容、それから自分の人生で出会うイベントや社会との関係など、より具体的な内容について、どう理解するか、どう対処するべきか、ということの指針を提供するのがこの本の良さである。たとえば、「サクラメント」や「主の晩餐」といった言葉の意味と意義などについての項目もあるかと思えば、「結婚」「家族」「国家」などについての聖書の見解も紹介している。それだけでは抽象的に過ぎないではないか、と思われるかもしれないが、ひとつひとつの自体に出合いそれと対峙するのは、信徒一人一人である。私たちがそれぞれに考えればよい。その基準や原理ということについて、聖書の基盤を教えてくれるというのが、この本の役立つ場面なのである。
そうしてこの教理解説は、最後に未来のことに及ぶ。私たちの罪を放置できないこと、その後「死」「再臨」「さばき」といった問題があることを、ともすれば私たちは関心の埒外に置きがちであるかもしれないが、そこが目的であり行き着くところなのであるから、もう一度見つめるべきである。いや、ひたすらそこを見つめているべきである。問題はこうしたところに向かい、本は閉じられる。
解説は、比較的簡潔である。だから、ある程度聖書への理解があることが前提となるだろうが、逆に聖書を全部読んでいない人であったとしても、この本はよいアウトラインを与えてくれるから、引用されている聖書箇所を開くという手間までかけると、実に深い聖書の理解を得ることができるのではないかと思われる。あるいは、信徒同士の学習会にも相応しい。礼拝の前などにひとときを設けてこれをひとつずつ読み合っていくとすれば、二年で全項目を学ぶことができる。94章あるからだ。
著者の強い個性が反映された、「おもしろい」ものではないかもしれないが、それは聖書に向かうためにむしろ適している性質である。ひととおり読んだ上で、また精読していくというやり方もある。ともすれば教理は信仰生活のためには理屈ばかりだと思われるかもしれないが、いざというときにこれほど頼りになるものはない。聖書のどこにどのように書いてあるのか、私たちは探すだけでも大変である。「まとめ」のほうを信仰するというのは本末転倒であるのだが、「まとめ」を指針として聖書に向かうことを咎める法はない。私たちの信仰をいきいきとするパワーを、この本はもっていることだろう。それを自分のエネルギーとして活かすも殺すも、やはり私がどう努めるか、というところである。まずは聖書を読む、そして適切な助けを求める、その姿勢で、聖書と共なる生活を送りたいものである。